「死んでいった君へ、、、。」

「あの時、死んでいたらいいのか今でも分からない。ただ今生きているのは、君を想う人を存在させるだけかもしれない」

序章 愛する君へ

ルカ、君がいなくなってから、もう18度目の夏が来る。僕の机の上は、その時々の気分で本棚から取り出された書物で埋まっている。写真立ての中の君は、いつまでも18歳の、あのときの笑顔のままだ。人生で一番可能性があって、輝いている時。そして横にはシルバーの指輪がある。


僕はもう30代も後半になってしまった。空は君と裏山で見た時と同じように、今日も晴れている。誰かが、「空に手を伸ばせば、離れていてもいつもつながっている。」と歌っていたけど、18年の年月が流れていても、僕達はつながれることが出来るのだろうか。
君と出逢うまでの僕は仕事もできず、社会ともつながれず、不安と恐怖で誰にも気付かれない下水溝の中で、溺れるようにもがき苦しんでいた。


「シ ニ タ イ」


人生に行き詰まった僕が大量の薬を飲み、救急車で運ばれた病院で僕達は出逢った。この運命的な出逢いが、僕の日常に彩りを与え始めるなんて、その時は夢にも思わなかった。僕は、君と出会って18年が経った今でも、たまに腕を切りたくなる。でも今はもう切らない。18歳の僕だったら、確実に切っていただろう。

目をつぶって、昔切っていた時のことを思い出す。 床に新聞の広告を敷いて、新品のピンクの柄のカミソリを持つ。左利きの僕は、右腕をカミソリで切っていく。まるで別人が切っているように、痛みも感じず、機械的に切る。ただ切るのではない。力を入れてカミソリを腕に埋めていき、横にじっくりと引いていく。
僕の腕にピンクのカミソリの柄が埋まる頃、キーンとした痛みを感じる。それが快感だ。腕からは、赤黒い血が流れ始める。僕はこの時、小学生の時にパレットに赤の絵の具をつけて、水で溶かす場面を思い出す。血は柄を伝って、カミソリの反対方向からも最初はポトポトと、次第に血液の間隔はなくなって、ダラダラと広告に落ちる。まるで、屋根を伝う雨粒の様だ。5センチ位切っていき、カミソリを肉塊から取り出すと、皮膚の下の脂肪が広がり、勢いよく血が流れ落ちていく。更にそれを横に3本切り、今度は縦にその上を切っていく。ちょうど碁盤の目になるように。既に横に切っている所をカミソリが通ると、より深く埋まり、血の流れが多くなる。
そして、カミソリが静脈に触れる時、気付くと血液は広告をはみ出して、床に流れている。そうすると満足して、僕は傷痕に新しいタオルをガムテープで巻き、体を横にして仰向けになり、心臓より腕を高く上げる。心臓から下にすると、頑丈に固定したタオルも役割を果たせず、赤黒く染まり、タオルを通り越して血が流れ落ちる。何度も静脈を切った経験から、処置の方法を学んだ。
しかし満足をする反面、僕は静脈を切る度に後悔する。処置が面倒なのだ。多くの人、(恐らく普通は)は、縫合するのだと思う。だが僕は縫わない。一度縫われたが、縫うのも、消毒するのも、抜糸するのも、安くはない費用が掛かる。自分で切っておいて、お金を払って縫うのは馬鹿らしい。こんな時は、外科医の見下げた言葉など聞きたくない。
僕は、昔はこんな事を繰り返していた。何時しかそれも意味を持たなくなり、切らなくなる。主治医の適切な薬物療法、注射、カウンセリング、そして認知行動療法を10年以上して切らなくなった。
18年前の僕は、心が病んでいて窓もカーテンを閉め、6畳の四角い闇に閉じこんでいた。
まともに日常の生活が出来なかった僕は、ルカに出会って、昔のいい事も嫌な事も何でも話せたことが嬉しかった。今まで溜め込んでいた、心の闇を吐き出す事が出来た。今の僕があるのは、君と出会えたからだと思う。
君と過ごした2ヵ月間は、暗闇にいながらも、生きている意味を持ち、光を感じられた。


僕達に人生で初めて訪れた幸せな日々は、本当に短い間だったけれども、永遠のものに感じられた。もしあの時、君を一人にしていなければ、今でも君は隣で笑っていてくれるだろう。そう考えると胸が苦しくなる。そして毎年、僕は、この季節になると、ふと一緒に過ごした日々と裏山の景色を思い出す。 君を失ってから、何度も何度も君を想って書いた手紙は、机の引き出しに閉まったままだ。だけど、そんな手紙も今回が最後にしようと思う。


新しい朝を迎えにいくためにも、僕らの夢の続きを歩いていくためにも……。

1、進路と絶望

高校3年の時、僕は殆ど不登校であったが、2年の時の素行の良さと最低限の出席日数で、なんとか高校を卒業できた。大学に受かる自信も無く、専門学校でやりたい事も無いので、僕は進学をせずに、何をやっているのかもよく分からない会社で、アルバイトとして働くことにした。
職種は営業職で、とある制度の会員を募集するというものだった。この制度、実は一般の人には殆ど知られていないものなのだが、当時の高卒には魅力的な18 万円という月給に惹かれて、入社したのだった。
僕の家は両親が離婚をしていて、父子家庭である。食費は父が出してくれたが、給料は自分の欲しい本や生活費に使い、そして最低賃金で働いて、苦労をしている母親に仕送りをしたいと思っていた。それが不登校だった僕が両親への恩返しと思い、仕事をするきっかけだった。


4月だというのに北海道は桜が咲く兆しもなく、一桁の気温で、朝晩にストーブをつけないと寒い。
僕が働くことになった札幌中央区にある営業所は、4 階建ての雑居ビルの2 階に入っていて、16 畳位の部屋で壁沿いに10台の電話が置かれているだけの、無機質な空間だった。そこの空間では、まるでカセットテープをかけている様に、電話で勧誘するパートの女性の声が繰り返されていた。僕の母と同じくらいの年齢に見える女性は、壁に向かっていたり、メモ帳に首をもたげたりして、8人位の様々な声が聞こえて、さながら雑踏の中にいるような気分になった。僕は、ここで本当にやっていけるのだろうか、と不安を感じたが、なんでもやればできるはずだと思い、僕の社会人生活はスタートした。
「はい、これがマニュアルだから頑張ってね。」
研修期間は殆ど無く、入社3 日目に突然、上司からそれだけを告げられて、僕は渡されたマニュアル本だけを頼りに、1 人で住宅地を回ることになった。
一軒家のドアのチャイムを押すと、奥の方から人の歩いてくる音が聞こえる。足音で、大体どのような人かが分かる。ある家では専業主婦の女性に、「月々3千円を積み立てることで、満期の9万円になると色々な商品が、他とは違って安く買える。」と訪問して歩いた。またある家では、リタイアした、父親よりも年上だと思える人に、額から落ちる汗を拭いながら、「一日100円の掛け金でいいんですよ。」と必死に入会をお願いした。
仕事場というものはこういうものなのだろうか、と高校を卒業して初めて働く現場に僕は圧倒された。僕は踏み込んではいけない所にアルバイトを始めた気になったが、まだ数日しかたっていない。ただ努力をするしかなかった。しかし、「不登校」からいきなり「働く」というのは、かなり無理があった。そこは後から思えば、ブラック企業の類だったのかもしれない。でもその時は分からず、僕は、ただひたすら言われた通りに必死に働いた。1日200件。個人の名前の書かれた大きな地図をコピーし、団地を中心に営業をしていく。


何も分かっていない18歳の若造の話など、誰が聞いてくれるだろう。どれだけ訪問しても、契約を取れる兆しは一向に見えなかった。契約を取れないまま1ヵ月が過ぎ、初めての給料として、18万円が通帳に入金された。僕はお金を貰えたことに喜んだが、初めて給料をもらう時、上司に言われた。
「契約も取れないで給料貰うのは、どういう気分?来月から1本3万円。親戚でも親でもいいから、契約取ってきてよ。わかった?」上司はじとーっとした眼差しで僕を見て言った。後ろではテレフォンオペレーターが、10人ほどひっきりなしに電話をかけている。
「今キャンペーンをしておりまして……。」皆が同じことを言っている。壁にはパートやアルバイトで働いている人の名前が張り出され、1つ契約が取れるごとに、1つ折り紙で作った花がつけられていた。それはまるで、人間の価値をそのまま表現されているように感じた。
当然のごとく、僕の所には1つも花が無く、優秀なパートの女性は6個も7個も花がつけられている。話術が巧みなのであろうか、どういう戦略で契約をとるのか聞きたかったが、それは同じ職場にあっても企業秘密。教えてはくれない。教えるくらいなら、自分が契約を取るという雰囲気であった。
仕事を始めてからも僕は、以前から常習していた自傷行為を頻繁に繰り返していた。自傷行為とは、文字通り自分を傷つけることだ。僕の場合はアームカットだった。刃物で腕を切ることだ。人によっては手首や足、首を切る。手首の場合はリストカット、足の場合はレッグカット、首の場合はネックカットと言われる。僕はストレスが溜まったり、人生に行き詰まったりすると、腕を切る。流れる血は、ストレスとともに体の外に出ていき、傷跡は僕に生きている証を与えてくれる。それが無いと、「死」が頭をよぎる。生きるために切る。これが高校時代に、僕が覚えた解決策だった。
また僕はこの頃から、自傷行為だけでは満たされない思いを、ネット上にブログを書いていた。

                                    
4月30日20時08分
「はじめまして。ハンドルネーム「ゆう」と言います。18歳男性です。
今日からブログをつけることにしました。
実は僕は学生の時は不登校でした。
でも、何とか学校を卒業して、何にもできない僕が、
一念発起して営業の仕事を始めて1ヶ月が経ちました。
でも、契約取れません。
泣きたいです。
それでも18万円貰いました。
嬉しいけど、後ろめたい。
結果なんて出せていません。
3万円、母に仕送りします。
会うことはないけど、元気でいて欲しい。
それと上司のプレッシャー、酷いです。
人間を否定されているよう。
でも、努力さえすれば、諦めなきゃ、やっていけると思います。
皆そうやって生きています。
高校の時の様に、出社拒否したい時も正直あります。
でも何とか頑張ります。
ブログ、毎日つけようと思います。
見てくれる人なんているのかな?
まぁいいか。
でわ。」


5月から、1本3万円の契約での仕事が始まった。「馬子にも衣裳」とはよく言ったものだ。僕は、スーツを着れば一人前のサラリーマンに見えるが、鏡を見ると中身とのギャップに居心地の悪さを感じた。僕は上司の言葉通りに、契約が取れるように着慣れないスーツで、蟻が巣の中に食料を運び入れるように、必死になってひたすら住宅地にパンフレットを持って回った。
企業という女王蟻に、搾取されているのに気付きもせずに……。僕は親戚や、友達の友達まで勧誘の話しをするようになり、頭の中は約の事で一杯でだった。それで契約できたのは、親戚のいつも優しいおばさん一人、「1本入ってもいいよ。」と言われ、僕はその言葉が嬉しいはずなのに、情けなさと恥ずかしげに悔しくって、深くお辞儀をした。僕の壁に書かれた名前の上には、初めて花が1つ付けられた。「はい、1本分。」上司から手渡された給与明細には、「3万円」とだけ書かれていた。僕の今月の価値はたった3万円だった。


5月26日19時06分
「ゆうです。こんばんわ。
いきなり泣き言ですが、契約がとれません。(涙)
今月の給料は3万円です。
営業の人って、皆こんな感じなのでしょうか?
毎日ブログをつけると言って、1ヵ月間放置。
頭が契約のことで頭が一杯でブログ書けませんでした。
すみません。
こんなブログ見てくれている人なんていないでしょうね?
突然ですが僕は、アームカッターです。
高2の途中から切るようになりました。
失恋と、不登校と祖母の介護で鬱状態になりました。
アムカ、する人がいたメールください。」


6月になり、また1からのスタートだ。その頃、僕はもうドアのチャイムを押せなくなっていた。契約をとる事よりも、その前に人の目が、歓迎されていない声が怖かった。玄関フードの中に一時間ほど立ちすくみ、何もしないでパンフレットを挟んで帰る姿は、「挙動不審者」として通報されても、おかしくなかっただろう。車で営業場所まで一人で行って、公園に座りこみ時間を潰すという日々が続いた。僕が、営業の仕事をするというので、父が決して安くはないスーツを3着、買ってくれた。そのときの父の笑顔を思い出すと、悲しくなった。それでも学生のときの経験から、「やる気になれば、なんだって出来る。」と思い続けていた。


6月8日2時30分
「明日も仕事があるのに寝られません。
契約も1個もとれません。(泣)
話を聞いてくれる人なんて誰もいない。
誰にも相談できない。
最近、腕切りまくりです。
頭が働かなくなって、眠れなくて、仕事もできないで、皆に迷惑かけている。
辞めたいけど、辞めると上司に言えない。
無能な奴だと思われるのが怖い。
でももう使えないって思われている。
どうしたらいいの?
涙が出る。
死にたいです。(涙)」


僕の体調は睡眠が取れても、1時間や2時間程しか寝られない日が続いた。休日も心が休まる事がなかった。頭が鈍くなり、思考が働かない。結局、僕は契約は取れず、この月の給料は無かった。6 月末、上司から、「契約の取れない人にいられても、困るんだけどね。」と言われた。いくら1本3万円の契約だからといって、身内まで巻き込んで契約を取らせるやり方に不信感を抱いた。
その頃に、やっと仕組みは分かった。新人を採用して、親戚縁者友達を勧誘させた後に、解雇する「商法」なのだ。僕はそれが、悪徳商法だというのに気付いた。社会に出て働く人の知識には、そういう会社に対する対応の仕方があったかもしれないが、初めて働いた18歳の僕にはそんな知識も無く、もう何をする気力も残っていなかった。ただ、ただ腕を切り続け、血を流していた。


恐らく、僕の精神状態は今の状態で精神科医にかかると、「適応障害」または、「抑鬱状態」と診断されたのだと思う。その落ち込みが2週間以上続いたのであれば、「鬱病」診察される。これは今に始まったことではない。以前も同じ経験をした。高校生のときの症状がぶり返したのだ。仕事場に行くこともできなくなり、休む日が多くなった。


7月6日13時50分
「一生懸命にやっているのに結果が出ない。
僕は無能だ。
今日、職場の上司から電話がきた。
「辞めるなら辞める、働くなら働く。はっきりしてくれないかい。」
と言われた。
使えないって思われるのが、死刑宣告をされたようで、
僕という人間を全否定された。
僕という存在は、社会にはいらないゴミとなった」


僕は、高校時代に不登校になった原因と同じく、鬱状態になっていることに気付き、遅ればせながら7月の初旬に退職した。パートのテレフォンオペレーターのおばさんには、
「あなたなら、どこに行ってもやっていけるわよ。」と励まされたが、この3ヶ月間の悪夢は僕の心を蝕んでいた。
仕事を辞めてやっと解放された、と思ったが気力、気分の落ち込み、何もできないという自己卑下や、働けなく学校を卒業して何もできないという罪悪感に、ひどく打ちのめされた。「鬱」は誰にでもなる可能性があると言う。でもなりやすい性格というものがあるのだ。僕は、また「鬱」の兆候が見えていた。


7月20日02時51分
「寝られない。
頭が重い。
布団から出られない。
腕を切った。
最近毎日切っている。
死にたい。
消えたい。
頭が重くて、考えることが出来ない。
死んだ方がいい人間がいるとしたら
僕だろう。」

2、初めてのOD、薬、自殺未遂。出会い

 

僕は7月の終わりの昼頃、新しい仕事を探さなければならないのに、また同じような経験をするかもしれないと二の足を踏み、求人に応募することが出来なかった。

ある日の夕食中、父に「早く仕事を見つけろ!」と怒鳴られた。僕は精一杯の気持ちで、「出来ないんだよ、仕事。それ以外にも、人付き合いや、今までできなかった事、全部何もかも出来ないんだ。」と涙ぐみながら言った。
「出来ないんじゃないんだよ。やる気を出せ、と言っているんだ。家にいても部屋に閉じこもって、寝ているだけじゃないか!せっかくバイトを始めたと思ったら3カ月も経たないで辞めて、いったい何がしたいんだ。」そう言うと、父はウイスキーを飲みほして、「それから、腕を切るのはやめろ!気付かないとでも思っているのか!考え方が少しおかしいんじゃないのか!?もうちょっと真面目に考えろ!」と言い捨てて、自分の部屋に入っていった。僕は口惜しさと何もできない自分の不甲斐なさに、溢れる涙を止めることが出来なかった。


そして次の日の昼間に、僕はどうしても現状を破りたがったがどうしてもできず、自分はもう敗者なのだと思い込んでしまい、これ以上生きていく方法はなく死のうと思った。
僕は風邪薬やアレルギー薬を何かに取りつかれたように胃の中に入れ、生まれて初めて大量服薬(オーバードーズ、OD)をした。それとアームカットもしていた。僕は札幌の中でも、大きなA 病院に救急車で運ばれた。何故運ばれたかは後で聞いたのだが、僕が無意識に助けを求めて警察に電話していて、不審に思った警察官が訪ねて来ていたからだ。ODした時は自制心が効かずに、思ったままに行動する。僕は、口や鼻や喉に色々な管をつけて、指には酸素量を測る器具がつけられ、手首には点滴の針を刺すのに、その度に皮膚に穴を開けなくてもいいように、常に針を刺された状態で固定されていた。
さながら、人体実験をされているような装備であった。
僕は、機械音のするICU で4 日間過ごした。まるで、別世界に来たように社会から隔離されていた。胃洗浄をしたかは分からなかった。胃洗浄するかどうかは、薬を飲んでからの時間で決められる。僕は200錠以上の薬を、ビールで飲んでいた。そして、運ばれた翌日の夜に意識が戻った。
ICU では、僕の飲んだ薬の量が多かったからか、意識が戻ってからも大事をとってもう2日間、この病室(ICU)にいることになった。3日目には大分周りの様子もわかるようになり、ベッドのカーテン越しに、何人も重体の患者さんが横になっているのがわかった。奇しくも、アルバイトで働いていた営業所と同じような白い壁であったが、ここは清潔感があり、機械がたくさんつけられていて、印象はまるで違った。営業所を悪魔の住む洞穴と例えるならば、ここはこんな自分を受け入れてくれる守護神のいる秘境のようだ。窓も無く、時計もここから見えないので、朝なのか夜なのかもわからなかったが、寝る時間に、「眠剤を入れます。」という看護婦さんの柔らかで、且、しっかりとした声だけが時間のわかる合図であった。


僕は横になっているのが暇なのと、動けない居心地の悪さで看護師さんに、「暇だ。」というと、「こんなものしかないけど……。」と古いディズニー映画を見せられた。その映画は、子どもが見るようなつまらないアニメで、僕はそれを見ていてさらに暇になり、「少し歩きたい。」と言った。そのときに医師の指示で喉につけられた管を外され、3日ぶりに人間に戻った感じがし、立ち上がる時は不思議な開放感が得られた。長い間ベッドで寝ていると、宇宙から帰還した乗組員の様にまともに歩けなかった。看護師に体を支えられながら病室を一往復すると、年を取ったおじいちゃんやおばあちゃんが病床に(僕がそうであった様に)、管や器具をつけられて横になっていた。一見すると、意識が無いように思えた。ここは、人間が生きているというのを感じさせない部屋だった。
死と限りなく近い人間がいる場所だった。
心電図の「ピピッ」と言う規則正しい音が一日中耳に聞こえ、僕が寝ている間も耳から離れない。面会に来ている患者さんのご家族と思われる方々の泣き声が、よく聞こえる。時々放送がかかり「55歳、男性、首をつった模様、意識レベルなし」と言う声が聞こえて、「死」というものを間近に感じて怖くなった。自分もあんな様に放送されたのかと思うと、大変なことをしたのだと思い知らされた。


僕は時間が経つと次第に落ち着いてきて、仕事が終わると毎日面会に来てくれた父に、
「ごめんなさい。」と謝った。
「祖母ちゃん亡くなったよ。」と父は言った。父は僕がこんな事件を起こしたのにもかかわらず、優しい声で言った。僕が意識を失って運ばれた夜、祖母は亡くなったのだ。僕は自分の代わりに亡くなったのではないかと思って、また悲しくなった。父は心の病気についての知識はなかったと思う。鬱病という言葉は知っていても、自分の息子がそうであるとは考えもしなかった。どういう風に接すればいいかも、分からなかっただろう。しかし自分の息子が自殺未遂をした事によって、「普通ではない。」とだけ感じ取って、あまり責めることはよくないのだと思っていたようだ。それで僕は少し救われた。怒鳴られていたら、どうなっていただろうか。
ICUに入って四日目の昼に、僕は精神科の大部屋に移された。退院できなかったのは、「肺炎を併発する可能性があるためと、精神的な問題のため」だそうだ。僕はその時には日本の医療のよさで、かなり回復していて、運動も出来そうだった。僕が移された大部屋は、3階の6人部屋で僕が入って満室になった。そこはICUと違い、人間が生きていることを感じさせる、新鮮な場所だった。僕のベッドは一番窓際で、向かいの患者さんは何処かに行っているのか、歯ブラシや本などが棚に置かれ人が生活している様子が伺えた。横の患者さんは、いる気配はするのだがカーテンで完全に隔離している。後になって医師からは、「無理に出ようとしなくていいからね。」と言われていることがわかった。この患者さんは、僕が退院するまで1度も会うことが無かった。夜にはカップラーメンをすする音が聞こえてきたので、体調はそんなに悪くないことがわかったが、
ベッドと部屋との仕切りにカーテンをしている様に、精神的には社会との壁があったのだろう。


僕はインターネットで、オーバードーズの様な自傷行為リストカットと同じで、自己完結的なストレスの解消法である、というのを見たことがあった。実際に自分でも驚くほどオーバードーズをする前の、頭の重さや気分の落ち込みが無くなり、心が晴れたような高揚感さえ覚えた。まるで、ゲージから外に飛び出した猫の様に、解放感に満ち溢れていた。そしてネットでよく見ていた、「精神病院入院マニュアル」のサイトで、「精神科に入院していると薬の副作用と運動不足でお腹が出るのを要注意!!」と言うのを思い出し、ベッドの上で腹筋運動をするまでとなり、数日前まで死ぬことを考えていた自分は、何処かに行ってしまったようであった。病室に掃除に来ていたおばさんに、「本当に病気なの?」
と驚かれてしまうほどであった。


掃除のおばさんが出ていくと、今度は30歳くらいの男性が入ってきた。髪が長めで長身の、雑誌のモデルを思い出させるような外見と、それに伴う優雅さを持っていた。「こんにちは。私、精神保健福祉士の渡辺と言います。伊藤タカシさんですよね。お加減いかがですか?」と言い、
僕は、「何とか落ち着いています。」というと、
「少しお話聞かせてください。」と言って、僕のベッドのところに来て、周りから見えないようにカーテンを閉めた。渡辺さんはオーバードーズで飲んだ薬の種類、家族構成、 生い立ちを聞いてきて、
「簡単な心理テストをしていただきたいのですが」と言って、50項目ぐらいある薄い冊子を、僕に手渡した。そこには、「落ち込むことがあるか?」とか病状を調べるものから、「周りにスパイがいると思うか?」などかなり病的なものまであり、「かなり思う」から「全然思わない」まで5段階評価のテストだった。僕は試験を受ける優秀な生徒の様に素早くかつ、流れるように10分程でテストは終えた。最後に売店やナースステーション、トイレや浴室の場所を教えてくれ、「ありがとうございました。」と言って帰って行った。


精神保健福祉士が帰った後、僕はようやく部屋からも出られた。初めての「精神科入院」という、好奇心と不安とを兼ね合わせて、僕はトイレに行こうと歩いていると、部屋から出たり入ったりしている、君がいた。これが僕とルカとの初めての出会いであった。

ルカの部屋は食事をする、「談話室」と呼ばれる皆がいる大部屋を隔てて、僕の病室の反対側にあった。僕のいる部屋、通路、談話室、短い通路、ルカの部屋という感じだった。最初は、男の子か女の子か分からなかった。髪はショートで、少し茶の明るい色だった。ベージュのトレーナーとジーンズを履いていて、男性であっても女性であってもスタイルがとてもいい、ということは分かった。そして体を見てみると胸があった。それで僕は、女の子という事が分かった。
何かを待っているのかそわそわした様子で、まるでリスが素早く動くしぐさをしているように見えた。これは一目惚れとは少し違う。病院には不釣り合いな無垢な笑顔と、水が弾けるような健康的な容姿だ。
この出会いはある種衝撃的で、ルカの中性的な魅力を持つ不思議な色合いが、一瞬にして僕の心に焼き付いた。もし僕が画家だったとしたら、必死に彼女にモデルになって欲しいと懇願していたであろう。彼女のことを好きか嫌いかで言えば、「好き」だったのだと思う。僕が初めて見るタイプの人物だった。
その娘は、若い男性に話しかけられていた。よく見ると、その男性は左手の手首から下を指先まで包帯をしている。その男性は「菊池さん」といって20 代半ばくらいの人で、君と親しげに話している様子から、仲がよいのが見てとれて、僕は少し嫉妬心が生まれてしまった。しばらくすると、面談室から医師と50 歳くらいの女性がでてきた。君はその女性の所に行き、医師に挨拶をしていた。
「ルカちゃん、じゃあね!」と菊池さんは手を振った。「ルカちゃん」と呼ばれた娘は振り返って手を振り返し、病棟を出て行こうとした。そのあと、僕のほうもチラッと見た気がして、僕はドキッとした。話しかけたかったが、体裁のいい言葉も勇気もそのときは無かった。僕は、ルカが僕の存在に気付いたのであれば嬉しいと思った。
「ルカちゃん、退院だね。元気でね。」と看護師と話をしているのが聞こえた。僕が大部屋に移った日が、ルカの退院日だった。僕は、ルカがいなくなってしまったのを残念に思った。菊池さんと仲がいいのを、ルカにも菊池さんに気があるのか、もしかしたら付き合っているのか、などと話もしたことも無いのに邪推してしまった。大部屋での入院生活が始まり次の日、早くも僕にも話をするような知り合いが出来た。

初めに話をしたのは、三浦さんという年上の女性で、僕が歯を磨きに洗面所に行くと、話しかけてきた。そこの洗面所は5つの蛇口があり、お湯も出て鏡もあるので頭を洗っている人もいた。三浦さんは、歯を磨き終わったようだった。三浦さんはセミロングで、小柄で童顔な人だ。恐らく、30代後半だろうと思った。
「私、三浦と言います。お名前なんていうんですか?」
「あ、伊藤です。」
「最近入院してきたんですよね。私も入院したばかりで……。お話しする人は出来ました
か?」
「いえ、まだ全然です。」僕は歯ブラシとコップを持ちながら答えた。
「私もいなくて。」三浦さんは立ち尽くしている僕を見て、
「歯、磨くんですよね。止めちゃってごめんなさい。じゃ、また。」と言って、笑顔で洗面所から出て行った。
何もわからない入院生活で話す人が出来たことは、僕の不安を少し払拭してくれた。三浦さんは僕が入院する1 日前からいること。入院すると髪が長いと面倒なので髪を切ったこと。その他、実は統合失調症であること。お金の管理が出来なくなって社会での生活に支障が出て入院してきたこと。お金はナースステーションで管理されていて自由に使えないことなど、自分のプライバシーに関わることも話してきた。三浦さんはとめどなく話して、僕は頷き、医師に病状を話す患者の様だと思ってしまった。僕は三浦さんに好意を抱かれているのではないか、と思った。それは後になって正しかったことがわかった。話をしていて、
「じゃあ、ジュース奢りますよ。僕も飲みたいから」と僕が言うと、
「いいの?なんだか悪いなぁ。」と三浦さんが言ったが、
「いいですよ。」と言って、ジュースを奢ってあげた。僕は、今までもこういう人の良さを出して、生きてきた。それが人に好かれるため、嫌われないための僕の「生き方」だった。
そして、それが看護師に見つかって、僕は入院早々怒られた。いきなりの失敗だった。「これからはやめて下さいね。」と看護師に言われ、ナースステーションで預かっている、三浦さんのお金から、ジュース代を返された。三浦さんはお金の管理が出来ない病気でもあるのだ。僕は、
「三浦さん、ごめんね。」としきりに謝った。三浦さんは、
「こっちこそごめんね。」と笑って許してくれたが、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
僕は、「嫌われること」、「悪く思われること」に過敏になっていた。僕の心に営業のアルバイト中の、嫌な思い出が蘇った。人に良く思われなくては自分を保てない。僕の「心の足」は重傷で、一人では立っていられなかった。倒れると頭痛がし、頭が重くなる。僕は頭が重くなり、その日は食事も喉を通らず、看護師はそのことを医師に報告し、抗鬱剤の点滴をしてもらった。鬱の症状は、体の痛みにも出る。マニュアル通りだ。僕は点滴が終わると、嘘のように僕の体調は回復した。それはアナフラニールの点滴で、唯一点滴できる抗鬱剤だった。僕は、怒られた事は忘れるくらい回復した。自分でもこんなにも回復するものか、と驚いてしまった。


僕は何もすることもないので売店を見に行こうと思い、ついでにジュースを買いに廊下を歩いて行った。廊下は、病棟を出て少し行くと微かに悪臭がし、さながら汚い公園のトイレを思い出した。それは何の匂いかわからず、それは閉められた扉の中からしているようだった。3階の案内図を見てみると、認知症患者が入院している、とのことだった。僕の入院している間、この扉が開いているのを見ることはなかった。売店にはお菓子や菓子パン、インスタントコーヒーや醤油などの食料品から、女性雑誌やタバコも売っていた。しかし、殆どが定価以上の値段で、僕はここでは物を買うことは無かった。外に出られない患者相手の、足元を見た商売だ。売店のおばさんは50代くらいの小太りで、厚化粧のどこにでもいる「おばさん」だった。愛想があまり良くなく、物の売買以外で話しているのを聞いたことはなかった。
売店の前にはベンチがあり、売店の横にはジュースの自動販売機が2つ並んでいる。ベンチには曽根さんという40 代くらいの女性と、大森さんという100キロはあろうかという50代くらい男性が座っていて、僕は声をかけられた。ベンチの大きさは3人がようやく座れる程度のもので、大森さんが座ると2人がやっとというものであった。そこで僕は、
「伊藤タカシです。」と自己紹介をすると、
「じゃあ、タカちゃんと呼んでいい?」と聞かれた。曽根さんは誰とでも気さくに話せる性格なのか、僕はこの日から「タカちゃん」になった。
2人から見れば子どもの歳と言ってもおかしくない僕に、入院生活について教えてくれた。まず、寝間着でいた僕に精神科病棟では起きている間はきちんとした私服を着ること。これは他の病棟とは違って、入院中に社会に出てもやっていけるように、退院後の生活を送れるように、ということだった。そう言われると、曽根さんも大森さんも私服を着ている。曽根さんにいたっては、口紅をつけて化粧をしていた。精神科の病棟では、それが当たり前のようだった。他の患者も寝間着を着ている人は1人もいなかった。それから物をあげないこと。1度あげると何回も貰おうとする輩がいるからだ。するなら「物々交換」にしておくこと。
物を盗まれないようにすること。洗濯し終わって乾燥室に干しておくと、盗む人がいるらしい。被害者が続出するので、乾燥室を使うときは注意すること。
そして、本やラジオなどを、持ってくること。体に痛みがあるわけではないので、精神科病棟は限りなく「暇」らしい。実体験からのアドバイスなので、とてもためになった。しかし、自分の病気のことを話すのはタブーではないらしい。同じ心の病を持った人から聞ける言葉は、時に医師や薬よりもよく効くらしい。曽根さんは躁鬱病、大森さんは対人恐怖症と統合失調症感情障害だという。
曽根さんは躁状態のときに、クレジットカードで買い物をしまくったあげく入院したらしい。そして躁のときは2人いる子どものことを放って置いて外出し、鬱のときは寝込んで家事も育児も出来ない自分に嫌気がさすのだと言っていた。大森さんは名前の通り大柄で、体格のいい方だ。僕が、
「営業の仕事の影響で対人恐怖症になった。」というと、
「対人恐怖症は年をとってもなかなか治らないね。」と苦労話もしてくれた。
統合失調症感情障害とは統合失調症(幻覚や幻聴が聞こえたりするなど)と、気分障害(主に鬱や躁)があることをいう。大森さんは若いときは鬱状態のときに「死ね」という幻聴が聞こえ、長い間入院したらしい。両親も亡くしているので、1人で家にいる時に幻聴が聞こえて死んでしまうのではないか、というのが怖くて退院できないそうだ。


僕は、皆と話すうちにあることに気付いた。僕は三浦さんや曽根さん、大森さんと話すとき、無意識のうちに好印象を与えようと振る舞っていた。嫌われたくない。嫌われたら終わりだ。また鬱状態になる。僕は学校や家でさえ、「誠実でいい人」を演じていたことに気付き始めた。でも世界は広く、そんな些細なことにとらわれていた僕は「井の中の蛙」で、人生は「いい人」を演じ続けて上手くいくほど甘くないと思った。心の病気は、僕にそういうことを気付かせてくれた。
それから2日が過ぎ、僕は皆といつもの様に話をしていると、3階の窓の外からルカが歩いているのが見えた。僕はすぐにわかった。あの純粋そうで中性的な魅力は、僕に大きな印象を与えていた。君を再び目にすることが出来て嬉しかった。
「あの娘、入院していた娘じゃないですか?」と僕が聞くと、
「あ、ルカちゃんだ。ルカちゃーん!」と、曽根さんが窓を開けて大声で言った。そうすると、ルカはこっちを向いて手を振った。曽根さんと大森さんも手を振り返した。ルカは北海道の短い夏の初めのまぶしい太陽に照らされて、とても健康的な女性に見えた。外見上はその辺を歩いている女性よりも眩しく、精神科に入院していたのが嘘のようだった。
「今日、診察の日なのかね。」と曽根さんが言った。
「ルカちゃんっていうのですか?」と、僕は確かめるように曽根さんに聞くと、
「うん、嶋田ルカちゃん。まだ18歳なんだよ。タカちゃんは?」
「18です。」
「じゃあ、同い年だね。2人とも可愛いしスタイルいいからお似合いじゃないの?」
突然そういう話になってびっくりしたのと、少し嬉しいのとあったが、
「でも彼氏いるんじゃないですか?」と、僕は菊池さんのことが気になって言った。
「いないんじゃない。」と、曽根さんは言った。「でもルカちゃんの私生活、結構謎だよね。」
僕は菊池さんとの関係を聞くのが恥ずかしくて、これ以上聞けなかった。でも、「いなけれ
ばいいな。」と思った。
僕が、ルカを窓の外に見つけた日からは夕食の後、3階にある売店の前のベンチに、僕と曽根さんと大森さん、ヒトミちゃんという20代後半の女性が集まって、何でもないことを話す習慣が出来ていた。まるで井戸端会議だ。
ヒトミちゃんは同じ病棟に入院していて、背が150センチもなく僕よりも年下に見えたが、曽根さんの話では子どもがいるそうだ。
「ルカちゃん、午前中に救急車でICU に運ばれたらしいよ。」と、曽根さんが言った。
「またODかな。」と、大森さんが言うと、たまたま近くにいた菊池さんもそれを聞いてい
て、話に割り込んできた。
「この前退院したばっかりでしょ。ルカ、また入院かな?」
「ルカ?」菊池さんは確かに呼び捨てで言った。
ルカの前では、「ちゃん」付けだったのに、やっぱり付き合っているのだろうか?僕は気になると同時に、残念で心が萎えてしまうのを感じた。
「なんでルカって呼び捨てなの?」と曽根さんが少しきつく言った。おお、曽根さんナイス突っ込み!
「だって年下だし、仲もいいから普通だよ。」やっぱり菊池さんとルカは仲がいいようだ。曽根さんと大森さんはこれ以上関わりたくないような感じで立ち上がって、自動販売機のほうへ歩いていった。
僕は菊池さんと2人になり、なんて言っていいかわからずにいると、
「最近入ってきたの?名前なんていうの?」と聞かれた。
「あ、伊藤です。」と言うと、
「下の名前は?俺は菊池ユウジ。」
「タカシといいます。」菊池さんは近寄ってきて、
「タカシ君か。よろしくね。俺、26歳で多分年上でしょ?半年くらい入院しているから分からないことがあったら、なんでも聞いてよ。」と、包帯をしていない右手で僕の肩を叩いた。菊池さんはリストカットで腱を切ってしまったのと、精神的な問題もあって入院しているという事だった。気さくな感じで、どうやらいい人のようだ。ただ、ルカと呼び捨てで言ったのが解せない。それに、ルカが退院するときに仲良く話していたのが気になる。
菊池さんが呼び捨てで呼ぶところがまるで、「自分の女だからな」と言っているような気がした。態度の軽さが、まるで口の上手さで女性からお金をねじとるホストのようだ。いまいちこの人が、どういうタイプの人なのかわからなかった。すると、「あ、さっちゃんだ。さっちゃーん!」と言って、振り返って「さっちゃん」と呼ばれた細身の女性のところに、行ってしまった。うーん、まったくもってわからない人だ。僕は胸に、もやもやを抱えた
まま、病室に戻りベッドに横になった。


僕が入院して1週間が経った日、いつものように皆が集まっている売店前のベンチのところに行くと、ルカ、君がいた。僕は突然の再会で嬉しかったが、彼女は問題があって入院したのだと思うと、手放しに喜べなかった。
眠剤50錠飲んで、地下鉄の南北線に乗ったところまでは覚えているんだけど、」とルカは少し照れくさそうに言った。
「先生が言っていたんだけど、終点の真駒内駅について気を失っているところを車掌さんに発見されて、財布に入っている診察券を見てこの病院に運ばれたみたい。」ルカはタバコを吸いながら、どこを見るともなく遠い目をしていた。
「無意識に死に場所、探していたのかな?」以前に見せた弾けるような笑顔はそこには無かった。まさに生気を吸い取られた、精神科の患者だった。僕はルカがこんな顔もするんだ、と可哀想に思った。よく顔を見てみると、女性というよりもまだあどけなさの残った少女だった。
「生きていたら色々あるよ。でもルカちゃん、悪い事ばかり考えていてもダメだよ。タカちゃんも18歳だって。同じ年で友達になれるんじゃない?」と、曽根さんがまたもや突然に言った。
「えっ!」と、僕は焦ったが、君は、
「はじめまして。嶋田ルカっていいます。」と少し笑顔を見せながら言った。僕も、
「はじめまして。伊藤タカシです。」と言った。
「ルカちゃんと、タカちゃんでいいコンビじゃん」曽根さんはいつもいいタイミングで、僕が喜ぶようなことを言う。からかっている感じで言っていない所が、曽根さんのいいところだ。
この時、生きる意味を無くしていた僕のこころに、少し変化が訪れた。僕は「ルカ」と呼ばれる娘と、知り合いになれたことが嬉しかった。ルカはこの時どう思っていただろうか?退院して1週間後に再入院した君の顔は楽しい未来を抱いているとはとても見えず、大きな山の前に立ちすくむ子猫のようだった。
そしてその時から僕とルカは次第に仲良くなり、いつの間にか自然に一緒にいるようになった。一緒に入れることが嬉しく、居心地が良かった。微かな光明が差したような気がした。そしてルカは、
「ねぇ、聞いてよ。私、田中先生に胃洗浄されたんだよ!裸見られたー。最悪ー。」と言ってしょげていた。ころころと変わる君の顔は、さいころの出目のように変化して、本当の君はどんな顔をしているのだろうと思った。


8月10日13時6分
「実は10日ほど前にODしてICUに運ばれました。(笑)
救急車初体験です。
と言っても記憶がないので覚えてないです。
胃洗浄もされたかどうかも分からないです。
記憶がない。
結構、危ない状態だったそうです。
死んだら死んだでいいんですけど、
なんか生きてしまっています。
ICUから精神科の病棟に移って、入院することになりました。
精神科入院も初めてです。
これから上手くやっていけるのか!?
大部屋に移って、1週間程だけど話をする人もできました。偉いぞ自分!
今日、素敵な女の娘と話をすることが出来ました。
Rちゃんです。
クスリや点滴のおかげなのか、
ODの作用なのか結構体調いいです。
Rちゃんと仲良くなりたいです。(照)」


入院中はブログを更新できなかったが、自分の気持ちを落ち着かせるためにもブログの代わりにノートに日々の出来事を書き続けていた。
翌日の午前中、僕が売店前に行ってみるとルカはいなかった。病室にいるのかな?と少し寂しく思っていると、ルカが階段を、子馬が坂路を駆け上がる様に勢いよく走ってきた。ルカは、夏物の雲一つない青空のような水色の綺麗なTシャツとジーンズを履き、大きなバックを肩からかけていた。僕は息を切らしていたルカに、
「どこに行っていたの?」と聞くと、
「朝一でうちに帰って、着替え持ってきた。」と言った。
ルカは北区のアパートに1人暮らしで、バスと地下鉄で行ってきたらしい。放送かかってないでしょ?と僕に聞いて、お金も下ろしてきたと言った。
「退院してまたすぐ入院なんて親に言えないから、入院費払わなくちゃいけないでしょ?カード持ってないから、貯金全部下ろしてきた。」と言った。聞いてみると、お金はお年玉や仕送り、そして大学に入って少ししたアルバイトのお金だった。
「どんなアルバイトをしていたの?」と聞くと、
「家庭教師だよ。」と言っていた。高校生の数学を教えていたそうだ。頭がいいんだ、と僕は思って、自分で入院費を払うルカは自立していると思った。全ては親任せの僕とは違っていた。

3、精神科入院生活

僕達が出会ったのは、北海道の短い夏の8月の初め。青空をキャンパスにして、大きな綿菓子の様な雲と太陽の光のコントラストでとても天気の良い、大きな病院の開放病棟だった。普通、自傷他害のある患者は閉鎖病棟に入れられる。しかし僕が入院した病院は、管理が甘かった。それと、空いている病床が開放病棟にしかなかった。
僕は3階の開放病棟、ルカは緊急で入院したので3階に空き部屋がなく、6階の開放病棟に入院した。
医師に入院する時、
「絶対、リストカットはしないでください。」と言われた。そう言われたが、それで止められるのならば入院などしていない。 本当に止めさせたければ、何としても閉鎖病棟に入れるはずなのに、と僕はこの医師に疑問を抱いた。
開放病棟は、どちらかというと比較的落ち着いている患者が、「休憩」のために入院するというのが多い。閉鎖病棟に入る時は厳重に荷物の検査をし、自傷をする可能性があるカミソリや鏡(壊して自傷するので)、ベルトも首つり防止にナースステーションに預けることになっている。買い物やお風呂に入るのに病棟から出るには、毎回看護師に鍵を開けて貰わなければならない。 


僕は外出してはカミソリを買って来て、ベッドの上でカーテンを閉めて腕を切っていた。それが見つかって外出禁止になった時は、三浦さんに吸っているタバコを借りて、腕に押し付けた。そうしないと、僕は頭がおかしくなりそうなほど、苛立っていた。普段はロングリストバンドをして隠している。他の人が見て、引かれるのも、「どうしたの?」と質問されるのもうざかった。
ただルカはだけは、そんな僕を見て、
「ODはしないの?」と聞いた。
「だってクスリは管理されているから、出来ないじゃん。」と言うと、
「私はよくやるよ。」と笑った。僕は驚いて、
「入院中に?どうやってやるの?」と聞くと、
「教えない。」と、いたずらっぽく笑った。ルカだけは、引かなかったし、一辺倒な質問もしなかった。ルカと話せたこと、笑顔を見られたことに僕は入院していることを忘れてしまいそうになった。ここには恋愛しに来たのではない。病気を治すために皆、来ているのだ。しかし、僕はルカという心の拠り所を見つけてしまい、夢中になっていった。


8月11日16時20分
「なんか入院してから調子いい。
でも腕を切っている。
自傷衝動がでて、落ち着かない、
死にたいわけではない。
アムカが完全に僕の一部になっている。
調子よくても悪くても切るのは異常だろうか?
皆、「若いからこれからだよ。」って言うけど
全然慰めになっていない。
若くてこんな状態なのは、取り返しのつかない時間を
使っているのがどんなに嫌か分かっているのだろうか?
とはいえ、Rちゃんと結構話せる。
正直に嬉しい。
髪が短くて、遠目に見ると男の子にも見えるけど、
ちゃんと女の子です。
かなり気になる娘です。
ちょっと入院楽しい!暇だけど!」


8月も中旬になりかけていたある日、僕達はいつもの様に僕達は売店前のベンチに集まっていた。エサに群がる鳩の様に、と言ったら怒られるであろう。でも規則正しく僕らは集まる。
売店は5時で閉まるので、シャッターが下りている。自動販売機は消灯時間までやっているので、僕達はジュースを飲みながら話をしていた。ビールでも売っていたら、毎晩宴会が開かれるであろう。
その日の夜も、僕と曽根さん、大森さんと菊池さん、そして6階からルカが3階の売店前まで降りてきて話をしていた。売店前のベンチに曽根さんと大森さんが座り、向かいに僕と菊池さんを挟んでルカと3人で廊下に座っていた。曽根さんと大森さんは菊池さんがいるからか、口数が少ない。
「なんでいるの?」と、曽根さんが小さな声で大森さんに言うのが聞こえた。多分、菊池さんのことだろう。水と油のような存在になっている。いつもは菊池さんはいなく、ルカがいるから来ているのだろうと思った。
菊池さんは、いろんな人と話しているのをよく見る。主に女性が多い。というか、ほとんど女性だ。僕には、菊池さんがどういうつもりで、いろんな女性に声をかけているのかわからない。床に座っている3人を見て、
「タカちゃん、ルカちゃん、交代するよ。俺そっちに座るよ。」と大森さんの2人分の幅を譲ってくれた。恐らく、ルカを菊池さんから離したかったのだろうと思った。
「ありがとう。」とルカが言って立ち上がるとルカに異変が起こった。体が硬直して震えている。皆が異変に気付くと、ルカの目から涙がこぼれた。
「ルカちゃん、大丈夫?」と大森さんが言うと、「あれ?」と言って、支えの無くなった人形の様に崩れ落ちそうになった。大森さんが体に似合わず俊敏にそれに気付き、ルカを支えた。
「どうしたの?」と菊池さんが聞くと、
「どうしたんだろう。短期作用の眠剤多かったからかな。」と言って、大森さんがベンチに座らせた。
「薬変わったの?」と僕が聞くと、
「眠れないから眠剤増やしてもらったんだ。」と言った。ほんの2,3分でルカは平常に戻った。まるで、手品師にマジックをかけられているようであった。皆が心配して、
「ベッドに入ったほうがいいよ。」と曽根さんが言うと、
「じゃあ俺6階まで連れて行くわ。」と言って菊池さんがルカを連れて行こうとした。曽根さんが僕にいいの?という感じで目配せをしたのに気付き、
「僕が連れて行きます。」と(自分でも驚くほど強引に)、ルカの腕を取った。
「お、おい。」と菊池さんは言ったが、「菊池さん、片腕で危ないから。」と、自分でもよく出た言葉だと思うような取ってつけた理由を言って、さながらお姫様を守る勇者にでもなった気分で、僕はエレベーターにルカを連れて乗った。6階のボタンを押すと
「ありがとうね。タカちゃん。」とルカは笑顔を作って少し僕に寄り添った。しおらしい仕草は、ボーイッシュな外見からは想像も出来なく、僕はルカの髪の毛が暖かくて柔らかく魅力的なにおいを感じて、ルカを守りたいと思った。


8月14日午後21時52分
「Rちゃんのことについて、Kさんが気になる。
KさんはRちゃんに気があるのだろう。
でも今日は自分なりにかなり頑張ったよ。
Rちゃんと寄り添ったりしていい気分。(照)
最近あんまり落ち込むことがない。
でも、病室で1人だと思うと不安になる。
だからなるべく、他の患者さんと話をする。
対人緊張があって最初は話すのが大変だったけど、
皆、心の病気。
僕のこともわかってくれる。
結構居心地いいなぁなんて、
不謹慎なことを考えています。」 


僕はよく暇つぶしに、夕食前に行われるマージャンを見学していた。そこの面子の林田さんという50代くらいのおばさんに、
「いつも見ているけど、マージャン出来るのかい?」と聞かれた。
僕は「出来るけど、見ているだけでいいんです。十分楽しいですよ。」と言った。それは本心だった。4人でマージャン卓を囲んでするのは、今の僕にはかなり緊張して思うように楽しめず、疲れるだけだと思った。営業の仕事は元々人見知りの僕に、「対人緊張」という更なる病原となっていた。僕は、同じマージャン仲間の、「角井のじいちゃん」とも話をするようになった。
林田のおばさんからは、「精神科病棟はトラブルを起こす人も多いけど、タカシ君は性格がよくて結構好かれているよ。」と言ってくれた。僕は対人関係でトラブルを起こすと、死にたくなって切ってしまうので嬉しくて安心した。
僕は何でもなくても切ることもあるのだが、「嫌われているのではないか?」と想像するだけで自傷の衝動が出て、鬱状態になる。それなので普段から嫌われないように、かなり注意を払っている。人に良く思われようとしている偽善者なのだ。自分でも分かっている。

そして僕は角井のじいちゃんが76歳であること、左手の小指がないこと、そして今だに「いやらしい本」をベッドの下に隠していることを知った。僕は、「小指の行方」については、出すぎているようで聞けなかった。角井のじいちゃんは、「いやらしい本」は退院して行った人から代々受け継がれているもので、
「貸してやろうか?」と言われたが丁重にお断りした。角井のじいちゃんは、物静かな感じを受けていたので、それがとても面白かった。
角井のじいちゃんは、朝起きるのも早かった。僕は睡眠障害があり、薬を飲んでも4時位には目が覚める。早朝に起きているメンバーは僕、角井のじいちゃん、そして摂食障害のさっちゃんだった。
さっちゃんは24歳でお子さんはいないけれど、婚姻歴があった。旦那さんとは半年前に離婚していて、それから一時は治まっていた拒食と過食嘔吐をぶり返したそうだ。165センチの身長で体重が35キロを近くになってしまったのと、離婚のストレスで3 ヶ月前くらいから入院していた。
さっちゃんは髪が長く、痩せすぎているけれど十分に魅力的だった。さっちゃんとは毎朝会うので友達になり、仲がいいので僕とさっちゃんが付き合っていると思っていた人もいたようだ。
さっちゃんの話によると、旦那さんと出会う前は、ススキノの風俗店で働いていたそうだ。そして、旦那さんと別れてからは故郷の秋田には帰らず、お金がなくなったらまた風俗でバイトをして生活費を稼いでいたらしい。このことは両親も知らないようだ。大学で北海道に来てからは、最低限の連絡しかしていないらしい。入院していることも知らせていないので、日中外出して、地下鉄でススキノまで行き、必要な入院費を稼いでいるという。
僕は別に特別な偏見を持っていないので、さっちゃんの生き方に抵抗はないが、もしそれがルカだったらやっぱり嫌だ。さっちゃんは僕に、
「話をよく聞いてくれるものだからついつい話しすぎちゃった。他の人には内緒だよ。」と言った。旦那さんはその事を知っていたのか聞いてみたら、「知っている」のだった。と言うか問い詰められて、「ばれた」と言うのが正しいらしい。僕は旦那さんの気持ちも少しわかった。
そんなことを話している間にみんな起きてきて、朝食を食べた。さっちゃんは食べたすぐ後にトイレに行って、ほとんど吐いていた。さっちゃんはまだ20 代前半だけど、色々問題があるとはいえ、自分の力で生きていた。
僕は、さっちゃんがススキノで働いているのを聞いて、ススキのような人だと思った。些細な風で大きくしなってしまうものの、自分の力で立っている。僕は素人に作られた、剣山に刺されている外見が綺麗なだけの花だ。中身が無い。根本は刈り取られて、自分の力では立っていれない。さっちゃんは大変な仕事をしているのを見せない強さもあったが、その分それが病気の原因になっているようだ。親に心配され、仕事もしていない自分は、さっちゃんから見ると「子ども」だった。親に甘えすぎていると思い、色々壁にぶつかりながらも生きているさっちゃんをすごいと思った。
朝早く起きることで、僕はよく昼食後に昼寝をしていた。夜は眠剤が無いと寝られないくせして、昼はよく寝る。起きると午後3時45分で、お風呂の終了時間まで後15分だった。
僕は慌ててベッドの下の衣装ケースからT シャツとトランクスを取って、シャンプーなどのお風呂セットを持って、浴室に向かった。この病院の浴室は大浴場で、1度に10人ほど入れるスペースがある。
僕は急いで脱衣所で服を脱いで、入ったときは3人しかいなく、もう出ようとしていた。そのうちの1人は背中にアメリカのバスケットボールチームのマークの様な、大きな刺青が彫られていた。僕は怖くて思わず浴室を出ようとも思ったが、出来るだけ関わらないように、端のほうに座った。シャワーを出して頭を洗おうとすると、
「おう、タカちゃん。」とあまり聞きたくないが、聞き覚えのある声がした。それはあの刺青の人で、なんと菊池さんだった。僕は、
「どうも。」と軽く会釈すると刺青のことを気にしてか、
「大丈夫。ヤクザとは関わりないから。ただのファッションだよ。」と笑いながら言った。左の手首には包帯はしていない。入浴の時だけ取ってもらっているようだ。僕はどうも会うたびにこの人のことが分からず、最初の気さくな人の印象から、悪い感じを覚えるようになっていくのを感じた。
しかし初めて会ったときから考えて、菊池さんは僕のことを友達だと思っているようで困ってしまう。確実に懐いてきている。このことを、僕は後から大森さんに言うと、
「あいつはいい奴じゃない。関わらないほうがいいよ。皆嫌っている。」と言っていた。「ファッションだって言うけど、あの刺青をセンスがいいと思っているそのセンスがおかしい。」と言っていた。


その日の夜、夢を見た。
菊池さんとルカが、ベッドに座って楽しげに話している。ルカは、
「菊池さん、手首大丈夫?」と、言って菊池さんの手を取って擦っている。菊池さんはルカの腰に手を回し、上着を脱ぎ、「この刺青、ルカのために彫ったんだよ。」と言った。狐の入れ墨だった。誰でもだまして手玉にとる。僕は病室の扉越しにその光景を見ていて、止めようとするが声が出ない。這ってでも2人のところにいこうとするが、泥沼に埋まってしまったように動けない。大森さんがいる。大森さんは、
「タカちゃん、関わらないほうがいいよ。」と言った。関わらなかったら2人を止められない。僕はルカが好きなんだ。他の男と一緒にいるところなんて見たくも無い。
「その手を離せ、ルカ!騙されているんだ!あいつはいい奴じゃない!」そう言って目が覚めた。最悪な夢だ。T シャツは汗でびっしょりだった。あの人には、ルカは渡したくなかった。僕は、ルカが好きなのだと思った。僕は淡い気持ちだったルカへの感情が、愛情へと変わっていったのに気付いた。

4、過去、鬱の兆し、裏山の景色

ある時、僕は6階で陣取ってテレビを見ているルカに会いに行って話していた事がある。中学生だった時の事。僕の中学の時はね……。


僕は、授業が終われば、サッカー部の副キャプテンとして部活にでて、休みの日は、友達と遊ぶ毎日だった。今思えば、あの頃は何も悩みが無く、また、あまりにも世間のことを知らなさすぎた。心が一番平和だった。
でも、部活も終わって、本を読むようになって、次第に内向的になっていった。僕は、今まで読まなかった、太宰治ドストエフスキーなどの著書を好んで読んでいたのも、 その性格になっていったからだろう。
遊びもスポーツから、友達と見よう見まねで覚えたマージャンをした。マージャンはすぐに学年中に広がり、お金を賭けるようになっていった。最初は数百円の賭けも、段々エスカレートしていき、数千円から多い人は万単位で借金をしている人もでてきた。そうなると、不良仲間の中ではいかさま紛いのことをする人もでてくる。僕はそういうことが大嫌いで、人付き合いも毛嫌いするようになり、マージャンもしなくなって、友達と遊ぶこともなくなってきた。そしてどんどん暗くになっていった僕は、勉強はほとんどしなかったけど、周りもする人も少なく、成績は平均的で、進学を考えて塾に通う人以外は皆どんぐりの背比べ程度の成績であった。僕は楽な私立の単願受験で、面接のみで高校に進学した。


「ルカちゃんはどうだったの?」
「うーん、函館に住んでいて、フツーだったよ。勉強も普通にして、帰ってきて寝ての繰り返し、詰まんないじんせーって感じ!」
「で、受験は?何高だったの?」
「高校行ってない。」
「えっ!?高校行ってないの?」
「そうだって!何回言わせるの?」
君はこの話が嫌な事のように僕に言った。
「東京に行っていたの!それで、予備校行って大検!で、北海道の大学入って、今1年生!」
このことに驚き、僕はもっとルカのことを聞きたかったが、話しているのはほとんど僕のことばっかりだった。
「それで、それで、」と聞きまくるのだ。

僕はもうその笑顔に心を囚われていて、ルカの心の中にある暗い影のことなど忘れていた。
でももしあの時冷静に考えることをしたならば、根暗で頭の悪い僕と違って、その頃から今の、人生に刹那的な、今の僕と同じく影を背負った君だったのだろう。君は中学を卒業すると、皆とは同じ高校へは進学せずに、一人で東京に上京した。そこで大検を受けるため、予備校に通った。何故そうしたかは、聞かなかった。いじめられるタイプではない。既に人生に冷めていたのだろうか。そのことは君の苦しい事を思い起こさせるようで、僕はとても聞けなかった。でもただ僕は逃げていたのかもしれない。ルカの気持ちを全部受け取るには、まだ時間が足りなかったのだと思った。


「で、高校の時はどうだったの?」
僕は高校に進学すると、友達もたいして出来ない、暗い生活を送っていた。やりたいことも無く、部活にも入らなかった。退屈で面白くない人間だった。ただ、入試の面接の際に面接官に、
「君の成績を見ると、勉強頑張らないとついていけないよ。」と脅されていたので、馬鹿正直な僕は、ノートをきちんと取り、宿題を真面目にこなしていた。
僕の通っていた学校は入試の点数で、「普通コース」と「進学コース」に分けられ、僕は普通コースに入学した。初めての試験で6クラスある普通コースで、学年2位の成績をとった。中学の時から考えると、ありえない順位であった。
そして1度目の試験で、テストの点数の取り方が分かった。高校1年時、僕は学年5位以内を常にキープし、教師やクラスメイトからも、一目おかれるようになった。そして、2年生に進級する時、「進学コース」に移されることになった。僕は勉強が特に好きではなく、しかし特にやりたいことも無かったのと、落ちこぼれにはなりたくなかったので先生の言われる通りに勉強をしていた。だから特にレベルの高い「進学コース」で苦労する気にはならなかったので、コースを変える事を拒んだ。
しかし、担任教師は自分のクラスから、「進学コース」にいく生徒がでることは評価が上がるのだろう。教師は必要に、「進学コース」を勧めてきた。そこで、僕は半ば無理やり、「進学コース」に移された。


授業中、漫画を見たり、騒いだりしている生徒が多い、「普通コース」に比べて、大学進学を希望している生徒が多いこのクラスでは、皆真面目に授業を受けていた。僕は点数の取り方が、他の生徒より知っていたのだと思う。このクラスでも、5位以内に入るようになっていた。僕は決して優秀な頭を持っていたわけではない。ただ、定期テストの点数の取り方を知っていただけだ。
教師は授業中に、「ここはテストに出るからね。」とか、「ここは重要だから。」など、テストに出すであろう点を発信する。なので、それをチェックしておいて、前日に、計算式や歴史の問題を丸暗記する。教師も手を抜いて、教科書や参考書の問題をそのままテストに出す。するとそれが出ると、僕は理解はしていないが、点数は取れるのだ。そのため、僕は教師が作るテストではない、大学の入試に出たような模試では点数は悪かった。応用が利かない。要領がよく、ずる賢いだけなのだ。だから、大学の入試試験は受からないと思った。
僕は皆に勉強が出来ること(ただ点数が良いだけ)で好かれていて、クラスの居心地は悪くは無かった。僕にも次第に友達も出来るようになり、よく話すようになっていった。
少し、生活に張りが出てきた頃、僕は生まれて初めて真剣に女性に恋心を抱くようになっていた。家に居る時間がもどかしく、毎日でも学校に行ってその子に会いたかった。僕は仲の良い友達に、恋の相談をして、ある日告白することにした。
「ふーん。それでそれで?」ルカは興味身心だ。
それで、返事は1日待たされた。その娘は、
「この前失恋したばかりで、今は付き合えません。」と言った。僕はタイミングが悪かったのだろうと思うことで、自分を立て直していた。しかし、数ヵ月後、僕が相談していた友達と告白した女の子が交際していることを知った僕は失恋の悲しみと、友達の裏切りに生きているとも死んでいるともとれないほど落ち込んだ。
「これが失恋というものか。」そう思って、浮かれていた心に重い鉛の玉をぶら下げている様な感じで、普通の落ち込みとは違った。立ち上がれないほど打ちひしがれていた。僕は元々落ち込みやすい性格だ、とその時知った。
僕はこの出来事が、医師にも言っていない「発病」のきっかけだと思っている。


それと同時期に、僕の両親の関係は破綻してきていた。この頃から、睡眠の質が悪くなり、頭が痛く重くなった。悪い事は重なっていくものだ。こういう時は、何をやってもうまい方向にいかない。僕は、生きていく希望が見えなくなっていた。鬱状態だった。そして、学校に行けなくなった。

父の兄、僕の叔父は小さな町であったが名士で、町議を勤めていた。
母は仕事が終わって食事が終わると、父との不満を晴らすように、町のスナックに飲みに行く日々が続いていた。そこで選挙が近いからと、母に「飲みに行くな!」と、いうことを父の実家から言われたのだ。母は酒癖が悪く、お酒を飲むとヤクザにも絡む様な人だった。
身内が毎晩、酒を飲んでは、騒ぐという噂は小さな町では、すぐに父の実家の耳に入った。選挙に不利になる。父は母に、「酒を飲みに行くな!」という。母は、「なんでさ!」と口答えをする。そして気分が悪いからまた飲みにいく、という悪循環の日々が続いていた。


母は東京の人であった。そんな母に、この噂で溢れかえる小さな町は苦痛であった。
「こんな町、嫌だ。東京に戻りたい。」と、たびたび口にするようになった。
ある日、いつものように母が飲みに行くと、父は玄関の鍵を閉めた。深夜になって、母が「開けろぉ!」とチャイムを鳴らしたり、ドアを蹴ったりする。すると僕は、玄関に行って鍵を開けた。
「お前、私のこと馬鹿だと思っているんだろ。」と、母に言われた。
「そんなこと思っていないよ。」と、僕が言うと、母は父と違う部屋に行って眠った。こんなことが毎日起こった。
それでも、母は朝6時には起きて、仕事を休むことは無かった。僕と兄の学費を稼がなくてはいけなかったからだ。お酒を飲むと暴れるが、飲まないときは、理想の母親になる。
その行動が、僕を悩ませた。いつも悪い母なら、反抗出来る。しかし、重労働をして帰ってくる母を見ると怒れない。悪い人はいない。誰にも当たれなかった。頭の中に苦しい思いが残った。
そんなある日、僕は失恋と、両親の不和からイライラして、髪の毛をめちゃくちゃにハサミで切った。どこにもぶつけられない感情を、自分に向けたのだ。少しすっきりしたが、死んでしまいたいような気持ちは続いていた。
その時初めて、果物ナイフを手に取った。腕にナイフをあて、すぅーと切った。頭の中がキーン、とするほどの激痛が走った。3本程切ったら、少し気持ちがすっとした。皮を切った程度だったが、血が流れた。これがはじめての僕のアームカットだった。
この頃から、僕は嫌なことがあると、腕を切ることで現実逃避をするようになっていた。実際、切ると落ち着く。まるで「麻薬」の様だった。
君は一人っ子で、親の過干渉が嫌で、実家には帰りたくないと言っていた。君はそれでOD を始めたのだろうか。僕達は、心を落ち着けるために、自分に刃を向けたんだ。いつかここから抜け出せるような気がして……。


ついに、と言うか、やはりと言うか、両親の仲は改善されなかった。新しい男の人を連れてきた母が一方的に出て行く、という形になった。母はそのことを僕に告げる時、涙を流しながら、「別れることになったから……ごめんね。」と、僕に言った。僕は取り乱すのは何か違うと感じ、「学費はどうするの?」と、的外れな返答をしてしまった。僕はいつも肝心なところで逃げる卑怯者なのだ。


実際、専門学校に通う兄と、私立の高校に通う僕の学費は父一人ではかなり大変な額になっていたが、父は、
「それは俺が何とかする。」と言った。僕は、涙は出なかったが、居心地が悪く、自分の部屋に閉じこもった。父は母に最低限の着る服だけを渡し、ブランド物のバックや服は全て焼却炉で燃やした。
「今回のことは全部俺に任せて欲しい。」と父は言っていたので、僕は何も口を出さなかった。
母は勤めていた仕事を辞めて、札幌の方に引っ越していった。細かい住所は教えてくれなかったが、電話番号だけは教えてくれた。不幸にも、その頃母方の祖母が、町立病院の特老に入院していた。既に話すことも、食事を取ることも出来なくなっていたが、洗濯などの世話をする人が必要だった。
母は病院と住んでいるところが遠く、紐の男と二人暮らしで、時間もお金もなく、祖母の洗濯などは結局僕の仕事になった。
失恋、離婚、祖母の世話、と様々なことが重なった僕は、「自分が我慢すればいい。」と思ってこなしていたが、ストレスは確実にたまり、円形脱毛が出来、腕を切り続けた。

4つ違いの兄は僕が高校2年を終わろうとする頃、クラスでも2,3名位しか受からない「情報処理1種」の資格を取り、周りは就職活動で走り回っている時にでも、わざわざ東京から北海道まで面接官がきて、漏れなく兄はその会社に就職した。就職活動らしい事をしていない兄は、おそらくリクルートスーツなどというものも持っていなかったのだと思う。4月も近づくと、会社で紹介してもらったアパートに兄はすごすごと引っ越していった。


普通は長男の行動を見て、次男は上手く親の前で立ち回るものだが、少なくともうちの家庭では違っていたようだ。高校3年になったこの頃の僕の生活は午前3時くらいに寝て、昼12時に起き、何もせず音楽を聴きながら、そしてたまにBOOK-OFF で買ってきた村上春樹などの小説を読み漁っていた。
そして、僕が起きて来ると、父は私立の高校に通いながら出席せずに学費だけ払っていることに業を煮やし、学校を行くのか辞めて働くのか迫るようになった。当然のことだ。
机の上には、求人の新聞広告が毎日のように置いてあった。僕もアルバイト情報誌を買ってはみたものの、思考はプラスではなくマイナスのベクトルを向いていた。
最後に兄が残していってくれたものは、「インターネットのできるパソコン」であった。
「これを見て暇つぶしでもしたら?」と言って置いていってくれたのである。
「パソコン使わないの?」と兄に聞くと、
「なんか、会社からあたるらしいよ。」と言って、
「ここは遊ぶ所もなんも無いから、ネット使わなきゃ腐るよ。」と、兄らしいつまらない言い回しで言っていた。
若い男がインターネットが出来る環境になると、得てして「アダルトサイト」に向かうもので、僕も例外なく閲覧していたが、それ以上に僕の検索するワードは「死にたい」「消えたい」「アームカット」など、メンタルヘルスに関することだった。そのようなアングラ的な情報は、ネットでは現実世界の何十倍もの容量の情報が詰まっていた。
今の自分の状態を知りたくて、インターネットで様々な心の病気のテストしてみると、どのサイトでも「中程度以上の鬱」と出た。「受診が必要」的なものだった。そしてアームカット。血の流れた画像が情報化社会の中で、氾濫していた。僕と似たようなもの。浅いもの、深いもの……。他の人の画像と比べてみると、僕のは中の上ぐらいの深さだった。
その頃のアームカットは、ナイフより簡単に深く切れるカミソリに変わり、傷も深く血も多く出した。まるで、自分の感情を流れ出すようにだ。
それと同時に、自分を消してしまいたいと、食事を取ることもしなくなっていった。3日に一度クラッカーを少し食べるというほとんど無食という感じで、2ヶ月で62キロあった体重が、50キロまで減っていった。父はそんな僕には気付かず、お酒を多く飲むようになったが、仕事だけは続けてくれた。その頃、僕はただ「消えてしまいたい。」と思うことが多くなっていった。そして、時間が心の疲れを癒してくれたのか、高校を卒業するとアルバイトを始めた。


ルカ……この頃から僕は病気だったんだよ。
一人だった。
「シニタイ」とは何か違う。「消えたかった」のだ。自分の存在自体を消したかった。皆から、僕という最低な人間の記憶を消したかった。初めからいないものであれば、死ぬのとは違って、誰も傷つけない。消えてしまうのが一番自分に合っている、と思った。
君もこんな想いをして生きていたのだろうか……。もっと早く君に会いたかった。ルカ、君は北海道のレベルの高い教育大学に入学した。もう既にOD依存になっていたのだった
ら、辛かっただろう。
後で、「先生になんかなれないよ。」と言っていたよね。教育大学を受けるくらいだから、「教師」には憧れていたのだろうけど、でも君は「なれない。」と言った。「なれない。」と言った、4文字の理由なんか聞けるようなものではなかった。僕は肝心なことからまた逃げたのだ。そのルカの言葉がとても悲しかった。
「そんなことより、裏山の公園見に行こうよ。行ったことある?」と僕は聞いた。
「ううん、ない。」ルカは首を振った。
「すごい景色みたいだよ!札幌を一望出来るんだって!」
僕はルカを連れて外に出た。そうすると、外は病院内とは別世界で太陽を直視できなく思いっきり真夏だった。空には雲一つもなく、太陽の陽が燦々と降り注いでいる。まるで、外に出た僕達のこれからを祝福しているようだ。
外に曽根さんが病院の庭に敷き詰められた緑の草の上に座り、日向ぼっこをしていた。微妙な距離で歩いていた僕たちを見て、
「手ぐらいつなげばいいのにー。」と冷やかしてきた。ルカはニコッと笑ったが、僕は、自分でも驚くくらい迷いも無く手をつないだ。
「あ、つなぐんだ。」と、ルカははにかんだ。
「うん。」と僕が言うと、ルカは僕の手をぎゅっと握った。ルカの手は小さく細く暖かだった。裏山の公園までは獣道で、木で出来た細い橋を渡るときは手を離して歩いたが、開けるとルカのほうから「手、繋げるよ。」と言って、僕の手を握った。色んな花が咲いていて、ルカは一つ一つに感動していた。良くも悪くも繊細な娘だった。僕はルカとこうしている
事が嬉しくなり、「ねぇ、「ルカ」って呼んでいい?」と聞くと、「いいよ。私は今まで通りタカちゃんね。」と答えた。「ルカ」とルカ自身に言うことで、ルカのいる前では呼び捨てに出来ない菊池さんよりも線が引けたと思った。
草が僕達よりも高く伸びていて、虫の鳴き声と交って、とても新鮮だった。草花の緑の匂い。久しぶりに嗅いだ気がする。高台までの長い階段を、僕達は一段飛ばしでかけ上がり、頂上に着いた。
「わぁ、すごーい!!」ルカはそう言って目を輝かせた。
そこからは青く広い空と遠くに白い雲、眼下には札幌の美しい景色が眺められた。圧倒的な自然の暖かさに僕達は興奮した。そしてそこで一時間ほどベンチに座った。まるで絵葉書の一部になった様な気分だった。
「ルカのアパートは北区だからあっちの方だよね。空気が澄んでいるから、札幌のこっち側からも見えるんじゃない?」僕は遠くを指さした。ルカも手を伸ばした。
「多分あっちの方。すごい!見えそうだね!テレビ塔も見えるよ!」この時のルカは、病気の文字とは無縁な娘に見えた。
微かに流れる風には、夏の匂いとともにルカの香りがした。ルカは僕の肩に頭を寄せていた。時は僕たちを乗せたまま静かに流れた。
「ルカ?」僕は彼女の頭をなでた。
「ん?」ルカがこっちを向いた。そして、僕達は初めて口づけをした。僕は初めて女性の唇に触れた。一瞬、時が止まったように感じた。ルカの唇はとても柔らかく、優しく僕を包んだ。二人は照れくさく少し笑った。
「このまま時が止まればいいのにね。」ルカは遠くを眺めながら言った。動かない街と空の景色。この一部分に確かに僕たちは生きている。
「そうだね。」僕も同じことを考えていた。1時間ほど何も話さず、景色を見ていた。それだけで幸せだった。いつまでも続くであろうこれからの未来に、心にあった暗闇は溶かされていった。
そうしていると、僕達の静かな時間を動かすように少し風が強くなってきた。
「涼しくなってきたね。戻ろうか。」
「連れて来てくれて、ありがとう。」ルカは僕の顔を見て笑った。
僕たちは立ち上がって、手を繋いで病院に戻っていった。この時、僕はルカと一緒に生きて行こうと思った。


8月15日19時21分
「今日はRちゃんと結構話した。
過去のことも全部。
大切な人に聞いてもらえてうれしかった。
Rちゃんは中学時代に何かあったのだろうか?
高校には行っていないって言っていた。
どうしてかは聞けなかった。
聞いて嫌われるより、無難な方を選ぶ自分は
情けない。
それよりもRちゃんのことをRと下の名前を
呼び捨てで言っていいことになった。
限りなく嬉しい。
しかも、裏山の公園でキスをした!
初めてのキス!(赤面)
今日はこれだけで満足です!」

5、生きる意味について、退院

ある日、曽根さんに、
「ルカちゃんもアムカするの?」と聞かれた。
「いや、しないよ。」と僕が言うと、
「腕に包帯巻いていたよ。アムカじゃないのかな?」と言った。ルカはOD をしても、アームカットはしていない。僕は確かめる為に会いに行くと、
「結構すっきりするね。びっくりした。」と、ルカは言った。ルカは僕のまねをして、アームカットをしていた。僕は複雑な気分になり、
「もうしちゃ駄目だよ。」と言うと、
「うん。やらない。だってOD の方がすっきりするもん。」と、笑顔を見せた。彼女のOD癖は、もう後戻りの出来ない状況になっていたのだった。僕は、そんな無邪気な笑顔の裏にあるルカの心に、気付いてあげられなかった。
「でもね、こうすれば一人前だよ。」
そういって君は自分の右腕をめくって、僕の左腕にそえた。僕の半分くらいの、白いというよりも青白い右腕。リストバンドを取ると、左利きだった僕の右腕は上腕から手首まで、深いのから短いの、浅い傷から深い傷まであり、紫色になっていて、他人が見ると引くような腕だった。右利きだったルカは、余り深くないけれど、規則正しく並べられた直線の傷跡が刻まれていた。
傷ついていない、僕の左腕と君の右腕。僕たちの半分ずつ2 つあわせれば、傷の無い体。
「2 人でなら生きていけるよ。」
そういって、君はいつもの笑顔を見せた。その笑顔はとても魅力的で、まるで天使(と言えば大げさだが)を思わせた。僕は、胸が高鳴るのを抑えるのに必死だった。ルカには何でも話せる。僕は、同士をも得たような気持ちであった。その後になって、僕は彼女を閉鎖病棟に入れない主治医を恨むことになった。そうしていれば、君を手放すことは無かったのだと思ったからだ。でもそのときの光景からは想像できないくらいに、君は無邪気だった。


僕は鬱の状態にあったからか、年齢的なものなのか分からないが、「人間は何故生きていくのか?」と言う哲学的な疑問に駆られていた。このとき愛読していた本は、柳田邦男さんの「犠牲サクリファイス」であった。
「犠牲サクリファイス」は、ノンフィクション作家柳田邦男さんの次男洋二郎さんが、自死されたことによって書かれた本だった。洋二郎さんは重篤な神経症を患いながらも、懸命に生き、悩み、そして亡くなった。
彼の生きかたに共感し、辛いことがあると何度も読み直した。働けないことに悩み、緊張しすぎて吐きながらもボランティアを4 ヶ月も続けた。
今の僕にそれが出来るだろうか?ただ逃げて、挑戦する気力も出ないことを理由に、甘えているだけではないのか?
柳田邦男さんは洋二郎さんのことを書くことで、同じような人に何かメッセージを送っているのではないだろうか?そう考えると、生きることの重要性、気力が出なくとも焦らずに「1 歩1 歩生きる」のが親に対する子の生き方、だと考えるようにもなっていた。洋二郎さんと僕は同じ「戦友」の様に親しみを感じた。
また、洋二郎さんも「生きる意味」について考え、リチャード・ドーキンスの「利己的な遺伝子」が文中に書かれていたので、僕も読み、哲学ではなく、遺伝子学的に人間の「生きる意味」を見つけた。
どの哲学書よりも、「利己的な遺伝子」は明解であった。その後から僕は、哲学書や啓蒙書は読まなくなった。「生きる意味」の疑問は解決した。いつ死んでもそれは遺伝子によるものだと思い、死ぬことが出来ないのも、それは遺伝子学的なものなのだと考えた。
しかし柳田邦男さんのいう、「二人称の死」についても実感した。人が死ぬのは解明できても、「あなたが死ぬ」、「家族が死ぬ」と二人称の人間が死ぬことの苦悩は科学では証明できないのではないか、とも思った。
僕は、曽根さんと大森さんの病気のことは聞いていたが、あらためてみると皆、話している限りどこが悪いのかわからない人達だった。でもそれぞれ問題を抱えている。僕とルカは鬱病、曽根さんは躁鬱病、大森さんとヒトミちゃんは統合失調症感情障害であった。
曽根さんは旦那さんとお子さんがいて、調子の良いときに外泊で家に帰るのだけど、予定よりも早く帰って来て泣いている姿を度々見せた。 やはり家に帰ると子どもと上手く接すれなく、食事を作ることもできないようだ。そのことで、曽根さんは自己嫌悪に陥るのだが、若干18歳の僕には励ましてあげられる言葉は思いつかなかった。
「曽根さん、頑張っているのわかるよ。」としか言えなかった。でもそんな彼女も病院で2,3日すれば普通のおばさんに戻って、
躁状態の時に80 万も使っちゃってねー。」とか、
「今日お風呂で、ルカちゃんの裸見たよー。」とかいいながら笑っていた。彼女は僕達のムードメーカーだった。彼女に落ち度があるわけではない。病気がみんな悪いのだ。僕はそんな曽根さんを、とても優しくしてあげたくなるのだった。ルカと行動を共にしているうちに、無気力で悲観的な僕が、「僕が心の病気になったから同じ病気の人の気持ちも分かるようになったんだ。」と、前向きな考えがいつの間にか、出来るようになった。
大森さんは生活保護で生活しているのだが、少ない生活費の中からよく缶ジュースを奢ってくれた。自分では、「人に奢ってはだめ」と以前忠告してくれたのだが、僕とルカは別物らしい。年齢的に僕が、結婚していたら出来たであろう、「自分の子ども」のように接してくれていた。よく「タカちゃんのような子どもがいたらなぁ。」と言っていたが、その度に「でも仕事もできない人間ですよー。」など、と言ったりしていた。大森さんは多くの患者に好かれていた。
他の患者の病気になった話を聞いては涙を流し、共感して聞くような人であった。僕が、
太宰治を読む。」というと、
「あんなの読んじゃダメだよ。もっと楽しいの読まなきゃ。」と、言っていた。僕がある日、
アームカットが止められない。」というと、
「大丈夫。焦らないで。きっと止められる。でも無理に止めちゃだめよ。諦めなきゃ、誰の上にも陽は上るんだから。」と手を握りながら言ってくれた。
「鬱の様な気分障害はクスリと時間が解決してくれるから、早まった真似をしてはだめだよ。治るから。」と僕を励ましてくれた。大森さんは時には親のように、時には友人のように接してくれるよき理解者で、尊敬できる人だった。
ヒトミちゃんは小柄な女性で、20代後半で2人の子どもがいた。しかし結婚したことはなく、シングルマザーで子供のような方だった。育児能力がない、と判断され施設に子どもを預けていて、月に何回か面会に行くそうだ。
薬の影響で前につんのめりながら小走りに歩いていて、自分が猪年だと言う事で、「猪突猛進なんだ。」と言って笑っていた。でも「やっぱり子どもといたい。」と言って、面会日には少ない生活保護費の中から、子どもの好きなぬいぐるみを買って行く、と言っていた。
僕は、ヒトミちゃんは子どものために頑張りたいのだが、その頑張り方が分からない、それを教えてあげられない自分の非力さと未熟さ加減に、大森さんのようなことが言えなくて、もどかしかった。一生懸命なヒトミちゃんは、人間として素敵に見えたお風呂は大浴場で、曜日によって男性と女性が入る曜日が決まっていた。ルカはお風呂から上がった後、いつものように売店前に来ていた。バスタオルで頭を拭いただけだったので僕は、
「ドライヤーしないの?」と聞くと、どうやらしないらしい。風呂上りのルカは艶かしいというよりも、元気な男の子といったイメージだ。直毛でショートカットのルカの髪質は羨ましかった。僕はドライヤーで乾かさないと、くせ毛なので上手くセットができない。
そういう話をしていると、「ルカちゃーん。」と親しげな声を出して、一人の男性が話に入ってきた。菊池さんだ。
「またODしたんだって?だめだなぁ。」と言って、ルカの頭をなでた。ルカは気まずい顔で僕をちらっと見た。この時点で「菊池さん」は「菊池」になった。僕は菊池の行動を見て、むっとした。そして大森さんが遮る様に菊池を無視して、
「親戚に双子の女の子がいてね、今年から高校生でお金がかかって大変なんだ。」という話をすると、菊池も、
「家にも親戚に双子の子がいて、今年高校なんだ。」と言ってきた。曽根さんは僕に目配せをした。そう言うとすぐに、菊池は病棟の方に去って行った。
「虚言癖。」と曽根さんが言い、「ルカちゃんに気があるんだよ。」と付け加えた。「あいつ嘘つきなんだよ。都合よく同じ高校生になる双子が、親戚にいるわけないじゃん。」
「友達がいないんだよ。」と、大森さんが言った。そして、そういう話をしていると「嶋田ルカさん、嶋田ルカさん、病室にお戻りくださーい。」と放送がかかった。
「わぁ!最悪!館内放送だ!はずかしー。」とルカは言ってみんなは笑い、ルカはそそくさと、階段を子犬のように駆け上がっていった。
少ししてルカが戻ってきたとき、ベンチの前をさっちゃんが泣きながら小走りに走り抜けて行った。その後を看護婦さんが追ってきている。さっちゃんが売店の前でつかまると、
「嫌です!」と叫んだ。
看護婦さんは、「じゃあご飯食べられるの?」と問い詰めた。
「食べます!食べるからやめてください!」と、看護婦さんの手を細い腕で振り切った。
「今日食べられなかったら、先生は「閉鎖に行ってもらう」って言っていたよ。嫌でしょ?閉鎖。がんばって食べるんだよ。」最後は諭すように看護婦さんは言って、さっちゃんが落ち着くところを見てから、ナースステーションのほうに戻って行った。僕達はこの光景を、さっちゃんには悪いが少し面白い寸劇を見るように、興味深く見ていた。ルカも興味深そうに見ている。
「大丈夫?さっちゃん。」と、曽根さんが聞いた。
「ご飯ちゃんと食べないで体重減ってきたから栄養剤点滴するって。」さっちゃんが静かに言った。
「栄養剤入れられると太るから。」さっちゃんはルカの隣に座った。
「ルカちゃんは食べられるの?」
「う、うん。一応食べている。」ルカは少し困ったように言った。
「いいなぁ、ルカちゃんは。彼氏もいるし、ご飯も食べられるし。」ルカはこっちに視線を送ったけど、僕は気恥ずかしさもあって苦笑いをしていた。


8月22日20時13分
「今日は同じ病棟に人と、いろんな話をした。
皆それぞれ事情を抱えている。
僕なんて父に養ってもらって恵まれている。
それなのに死のうとするのは何故だろう。
病気を抱えたまま生きるのと、さっぱり死ぬのが
どちらがいいのかなんて思考が出るのは
やっぱり病気のせいなのだろうか。」


次の日の午後、3階のテレビのある談話室で、一騒動が起きた。
僕とルカが座っている前で、高橋君という車椅子の20代の男性が、不自由な体を震わせて怒っていた。どうやら「死にたい」と言ったのを、他の患者に咎められたらしいのだ。
そのさまは、今まで溜まっていた溶岩を爆発させるように激しかった。
「そんなこと言ったらいけないよ!」50代くらいの女性が声を荒げた。高橋君は興奮して治まらず、箸のケースを、もう一人の車椅子の男性に向かって投げつけた。それは当たらず壁に当たったが、高橋君は泣いていた。怒りと悲しみの堤防が破れたように、気持ちが涙とともに流れた。その音を聞きつけて、スタッフが3人ほど駆けつけてきた。
「なんで死にたいって言ったらいけないの?」言葉も不自由だが、大きな声なので聴きとれた。
聞いたところによると、高橋君はもう3年ほど前から入院しているらしい。交通事故にあって体が不自由になり、その中で精神的にも参ってしまったというのだ。交通事故などで怪我をするのは体だけではない。脳にダメージを受けると、「高次脳機能障碍」という障碍が出る。20代で「動けない」となると、自暴自棄になるのは仕様がないことだ。
「高橋君の気持ちわかる。」ルカはとボソッと言った。
「辛いね。」と僕が言うと、
「辛いよね。」とルカはそう言って、いつもの笑顔ではなく、初めて会った時のような遠い目をして、思いつめた表情で6階に戻っていった。
高橋君と気持ちがシンクロしたのだろうか?ルカはたまに遠い目を見せる。踏み込まれたくない、ルカだけの世界があるのだろうか。簡単には生きていけない、ルカも生きることと戦っているのだろうと思った。僕は、彼女の力になりたいと本気で思った。それには、僕が自分自身の戦いから勝たなくてはいけない。そうしたらルカも……。そう思った。
僕は騒動が終わってから、小さいテレビのある和室に座ってテレビを見ていた。林田のおばさんもいて、
「伊藤君、服いろいろ持っているけど似合っていいねぇ。」と言ってきた。僕は、
「そうですか?」と言って照れたが、
「スタイルがいいからだと思うよ。」と、横のほうから声がした。三浦さんだ。
「何センチの何キロ?」と林田さんは聞いてきた。
「172 センチの62 キロです。」僕は少し照れくさそうに言った。
「いいなぁー。痩せていて。」三浦さんが言った。三浦さんは太ってはいない。背が低くて、普通体型だ。
「私の初恋の人に似ているんだよねー。伊藤君。」と三浦さんは言った。
「はぁ、そうなんですか?」今度はちょっと困ったように言った。同窓会で言われるような、「小学校の時、好きだったんだよー」的なものと、同じ感じの気分だった。
「入院して最初のころ、落ち着かなくて伊藤君の後、つけて回ってたんだよ。邪魔くさかったでしょ?」三浦さんは笑いながら言った。
「そうだったんですか?僕も話す人がいなかったから、全然邪魔なんかじゃないですよ。」
そういうと、
「ならよかった。」と言って、
「伊藤君みたいな彼氏が出来たらいいけど、私もうおばさんだからなぁ。」と言った。
「その後夜中におなか減っちゃって、カップラーメン食べている途中に眠剤効いてきて、ラーメンの中に顔つけちゃってやけどしてさ。」と三浦さんは笑いながら言って、たわいのない話で盛り上がった。僕は三浦さんにやはり好かれていたと知って、年齢は関係なく素直に嬉しかった。入院してそんなに経っていないのに皆、旧友のように接してくれる。とてもありがたいことだ。

それから2日程して、3階の女性部屋に空きが出来た。僕は、まるで何かに合格したかのように胸が高鳴った。ルカは、「3階に行きたい。」と言っていたので、報告しようと思って6階に駆け上がった。
ルカによると、「6階は時間が止まっている」そうだ。初めて行ったときは気付かなかったが、僕は6階を見渡してそれが分かった。高齢者が多くて、寝ているのか起きているのかわからない人達がたくさんいた。ラジカセから演歌が大きな音でかかっている。僕はそこの一部にルカがなっていると考えると、少し面白かった。

ルカはいつもの様に6階のテレビの前に席を陣取り、にやにやしながらテレビを見ていた。僕は鬱になってから、テレビはうるさくて殆ど見ていなかった。でも、ワイドショーを見ているルカは、テレビ大好き少女らしかった。
「ルカ!3階に空きが出来たよ!」と僕は朗報を告げるように言った。
「ほんと?」とルカは言って、僕を近くに招いた。
「もう少ししたら先生が回診で来るからその時に言ってみる!」そう言って、先生を待つことにした。
なかなかこないのでソワソワしていたら、30分程して僕と同じ担当医師の田中先生がナースステーションに入ってきた。ルカは、「行ってくる。」と言って、ナースステーションの中に入っていった。僕からは死角になっていて経過は見られなかったが、10分くらいしてルカが戻ってきた。顔は笑っている。上手くいったのではないか、と僕が思うとルカが思わぬことを言った。
「退院になっちゃった。」
「へっ!?」と僕は思ったのと同時に、田中医師について不満を覚えた。ODをして救急車で運ばれてきた娘を、2週間ほどで簡単に退院させることに、無責任さを感じた。
しかし、医師の意見は、「入院癖がついては困るし、血液検査でも異常がなかった。」からだ、というのだ。
そのあと僕はルカと一緒に、3階にエレベーターで戻った。二人きりになったので、僕は本心を伝えた。
「僕、ルカのこと好きだから。これは変わらないから。」僕はルカの目を見ていった。僕は、ルカに初めて「好きだ」といった。ルカの反応が怖くて今まで言えなかったが、これは言っておかなければいけない言葉だと思っていた。ルカはニコッとして、あの天使の様な笑顔になった。そうして3階に着くと、ヒトミちゃんにポケットから煙草とライターを取りだして「あげる。」と言って渡した。僕は以前から「煙草はやめよう。」と言っていた。ルカは躊躇っていたけれど、僕の告白でやめる決心をしたようだ。

僕は今までルカ以外に2人の女性と付き合ったが、僕が付き合ったのは好きではなく嫌いでもない相手だった。相手に言い寄られて交際をしていた。しかし僕のこころが彼女に無い分、付き合う日数も短いものだった。ルカと付き合うことは初めて心惹かれる人と付き合えたと、嬉しかった。これが永遠に続けば、と思えた。僕はルカと離れたくなかった。
僕の心の中にはルカのことで一杯だった。僕はナースステーションに行って、「退院する」という旨を伝えた。


その日の夕食前、僕は曽根さんと病棟の喫煙室にいた。僕は煙草を吸わなかったが、皆タバコを吸いに喫煙室に行ってしまうので、付いていった。喫煙室は狭くて6人ほどいると、満員になってしまう。
入院中、話す人がいないと辛いので、知り合いを増やすためにも僕は喫煙室に行っていたのだが、満員電車でタバコを吹かしているような状況なので辛かった。でもそれも初めのうち。すぐに慣れる事が出来た。部屋の壁と天井は最初は白かったのだろうか、タバコのやにで黄色くなっている。そこには、20 代前半のハルちゃんと、ハルちゃんと同じくらいの年齢のマリちゃん、30 歳前後だと思われるセイコさんと、僕と同じくらいの歳の高木君がそれぞれタバコを吸っていた。
ライターは火事になるといけないので、短い紐で壁にぶら下げられていて、取り外しが出来ないように頑丈につけられていた。
「高木君、タバコ吸っていいことになったの?」曽根さんが言った。
「1 度注意されたけど、その後何にも言われないし、我慢するとストレスになることもあるからって黙認っすね。」高木君は、僕よりも背が高くてかっこいい。髪の毛は坊主だけど、頭の形もよく、おしゃれして街を歩けば声をかけられるような容姿であった。
「黙認って高木君、何歳なの?」僕が聞いた。
「18っす。」高木君はタバコを吹かしながらいった。僕と同い年だ。
かねてから思っていたのだが、精神科病棟は喫煙率が高すぎる。僕以外のほとんどの人は吸っている、と思えば、ルカもだ。忘れていた。あまりにも自然にタバコを吸うので、気がつかなかった。不覚だ。この前の「ルカのこと好きだから」発言で止める前に、タバコを吸うのは法律的な問題で止めるべきだった。ルカが、タバコをヒトミちゃんに渡したのは、当然のことだったのだ。まぁ、結果的に止めるように決心したのだから、咎める事はやめにしよう。
「ハルちゃん、入院してどれくらい?」マリちゃんが口を開いた。マリちゃんは、ちょっとふっくらしている。
「2 年くらいです。19 歳のときから。」ハルちゃんが言った。ハルちゃんは、マリちゃんよりもっとふっくらしている。自分からはあまり話すほうではなく、いつも聞き役に回っている。
「そうだよね。私が入院する前からいたよね。」曽根さんが言うと、ハルちゃんはうなずいた。
「それだけ入院していたら健常者に友達いる?」曽根さんは聞きづらいことも結構突っ込んでくる。
「1 年くらいでいなくなっちゃった。今は面接に月に1 回、親が来るだけです。」ハルちゃんは寂しそうに言った。友達が少ない気持ちが分かって、かわいそうだった。僕達、精神科入院患者は、患者は「障碍者」、病気じゃない人は「健常者」と線を引く。僕も健常者で付き合いのいる人は1 人きりだ。でも健常者と障碍者で線引きするのはどうだろう?と言う気持ちを持つこともあった。みんな同じ人間だ。皆、生きている1 人の人間である。障碍者という立場を、社会から逃げるための免罪符に聞こえてしまって、「これは違うよな」と考えるときもあった。でも働けない、生きているのが辛い、死んでしまいたいと言う思いがあるのも事実だった。この二律背反に僕は揺れながら悩んでいた。
「マリちゃんは?」と、曽根さんが聞いた。
「私は半年くらい。でも任意入院じゃなくて措置入院だから、自分が出たくても先生や親が許可出さないと退院できないんだ。」マリちゃんは重度の電話依存症で、携帯電話の料金が1 ヶ月で50 万円までいって、親があわてて医師と相談して入院になったと聞いていた。
任意入院」とは、自分の意思で入院することである。他に「措置入院」と、「医療保護入院」がある。「措置入院」は、自傷他害の恐れがあって入院することである。「医療保護入院」とは、本人の同意がなくても保護者、または扶養義務者の同意により、精神科病院に入院させることができる制度である。僕とルカは多分「措置入院」である。なので、僕の「退院する」宣言は、無意味に終わる可能性が大きい。
「セイコさん長いよね。」マリちゃんが言った。セイコさんは「うん。」と言って、なぜかニコニコして出て行った。不思議な人だ。
「セイコさん、10 年以上いるそうだよ。」曽根さんが言った。
「え?今何歳?30 くらいだよね。20 歳の時からいるの?」マリちゃんが言った。
「ここの病院から1 キロくらい行った所に、おっきい家があって、そこのお嬢様らしいよ。」
曽根さんは何でもよく知っている。曽根さんが言うには、重度の統合失調症だそうだ。
「でもセイコさんの面会、見たことないよ。親どうしているんだろう。見捨てているのかな?」マリちゃんはかわいそうに、という感じで言った。
高木君が「トイレ行ってきます。」と言って出ていった。
曽根さんが、
「わざわざ言わなくていいよ。」と相槌を入れていた。高木君がいなくなると、
「こんなところで告るかなぁ。」とマリちゃんが言った。どうやら高木君は喫煙室で、2人の時にマリちゃんに告白したらしい。背も高く、かっこいいのでモテそうだがマリちゃんには振られたらしい。僕はどちらかというと細い娘がタイプなのだが、そうではないマリちゃんは高木君が惚れるのもわかる、かわいい人だった。すると、「ピンポーン」と放送がかかった。
「夕食が届きました。夕食が届きました。取りに来てくださーい。」
「さあ、メシメシ。今日はサンマでーす。」と曽根さんが言うと、
「またサンマぁ?」と嫌そうにマリちゃんが言って、僕たちは夕飯に向かった。その言葉がなんか家族団らんを演じたような気分になった。


8月25日20時31分
「突然だけどRの退院が決まった。
それは嬉しいことだけど、こんなに早く退院して大丈夫なのか、
心配してしまう。
Rがいなくなるのと、体調も安定してきたので、
僕も退院を看護師に申し出た。
措置入院なので退院できるかどうか分からないけど、
Rとは離れたくないな。」


次の日に、担当医の田中医師に個室に呼ばれた。
「今日まで入院生活、頑張って過ごしてきましたね。最後にどうしても話しておきたいことがあるので、時間を取らせてもらいました。」と言って、僕の病気についての説明を始めた。
「伊藤さんの場合は、心理テストや生い立ちのことを考えると、鬱もあるけれども、AC(アダルトチルドレン)なんだよね。広い意味で。」と言って続けた。「ACというのは「機能不全家庭で育ったことにより、成人してもなお内心的なトラウマを持つ」という考え方です。
そしてACというのは精神疾患名ではないけど、そのために精神疾患鬱状態になりやすく、気分が状況によって変わりやすい。純粋な鬱病ではないと言えば語弊があるかもしれないけど、新しいタイプの鬱と言えます。気分の良い悪いのふり幅が大きすぎる症状が見られるのです。そして対人恐怖やパーソナリティ障害という認知機能に大きな偏りがあり、社会生活に支障をきたす精神疾患になりやすいといった特徴もあります。」と、丁寧に教えてくれた。教科書を読んでいるようだ。

パーソナリティ障害というのは僕の場合「境界性パーソナリティ障害だろう。BPDやボーダーともいう。ボーダーの特徴としては、相手の些細な動作や態度から、見捨てられたと感じ、パニックに陥り、衝動的・自己破壊的な行為をしがちで、リストカットや大量服薬などの自傷行為を繰り返し、慢性的な強い空虚感や孤独感がある症状をいう。
「長年育った家庭の中での問題で認知機能が偏って、社会生活に支障をきたしているんです。そして自己評価が低く、対人関係に異常に気を使ってよく見てもらおうという考えになっている。自己評価が普通の人は、多少人に何か言われてもそんなに鬱になるほど落ち込まない。落ち込んでも自分の力で立ち上がれる。でも伊藤さんはそれが出来ず、自傷行為オーバードーズをしてしまう。」
なるほど、と思って僕は聞いていた。
「その認知の問題を正しいというか、社会でやっていけるように治療をしていく必要があります。そのことを忘れないでこれからの生活を営んでいってほしい、と言う事を言いたかったのです。」
兎にも角にも、僕の退院は成立したのだった。僕はこの田中先生に対して、不信感を抱いていた。「眠れない」というと誰に対しても出す薬を同じ。回診も少ない。自己の利益になることを優先している気がしたのだ。
しかし、僕はそれまでアダルトチルドレンに関する本を何冊も読んでいたが、実際に田中先生にそういわれたことで、自分の病的な部分を再確認した。案外優秀な医師かも、と思ったのも事実だ。そして数日が過ぎて、2人とも退院する事になった。


8月26日21時3分
「退院決定しました。
Rと同じ日。
皆と別れるのは寂しいけど、いつかは訪れる事。
皆で話をしていいるから、こころは紛れるが、
家に帰ったら大丈夫なのか不安に思ってしまう。
T医師と病気について話をした。
僕はACらしい。
それは何となくわかっていた。
パーソナリティ障害かもしれない。
というか、パーソナリティ障害なのだろう。境界性の。
自傷や見捨てられえ不安、自己評価の低さがあるのは、
気付いている。
でも入院患者の中にいるとそんなに悪いとは思わない。
でもそれはここでの話。
社会から隔離された特別な場所だからだ。
これをどうにかしないと、仕事も何もできない。
何とか頑張ろう。
あと退院の時にはRにブログのことを話そう。
そうすれば、離れて暮らしていても、コミュニケーションが
取れると思う。
ルカも僕も1人になるのは不安だろうから。」


それから5日後、区切りがいいという事で、月末の8月いっぱいで2人とも退院することとなった。僕は約1ヶ月の精神科入院を終えた。大森さんには「I'll be back になるなよ。」
とアメリカの映画に出てきた俳優の言葉を使って、笑いながら別れた。僕も将来になったら大森さんのような、大きな(体じゃなくて)人になろうと思った。今回の1ヶ月の入院は、今後の僕の人生や考え方に大きく影響を与えた。
退院後、僕は札幌の心療内科クリニックに通院する様になった。「自傷」や「OD」をする患者は、診察拒否に合うことが少なくないらしい。面倒な患者なのだ。医師によっては薬ばかりをたくさん出し、病気をないがしろされることも多いようだ。そういう所では、患者は心を開かない。患者は医師の仕草や言葉にとても敏感である。
曽根さんや大森さんの話では入院中に、「良い評判である」と聞いていた比較的家から近い、心療内科クリニックに通うことになった。ルカは入院していた病院が元々通院していた病院だったので、そのまま病院に通った。休学する少し前から通っていたそうだ。事前にクリニックに電話連絡をした時に、未成年と言う事もあって、家族の同伴して欲しいと言われていたので、父と二人で行った。僕が行ったクリニックは清潔感にあふれ、独り言を言う人もいなく、騒ぐ人もいなかった。皆、雑誌や携帯、編み物をしたりして順番を待っていた。評判が良い病院なので混んでいる。逆に混んでいない病院は、医師に問題がある場合が多いのだ。
そこはメディカルビルの中にあるこじんまりとした、きれいな外観で鉄パイプの椅子ではなく、柔らかいソファが並べられていた。そこには10人ほどの人が待合室に座り、オルゴールの様な音色の音楽がかかっていた。僕は始めに心理テストを行い、ソーシャルワーカーと呼ばれる人に、生まれてきて今までの経緯を細かく説明した。ソーシャルワーカーは詳細にメモを取り、待合室に戻された。
30分ほど経つと診察室に呼ばれ、40半ば位の短髪の男性に迎えられた。僕は、入院中の田中医師に紹介状を書いてもらっていた。その医師は紹介状とソーシャルワーカーの話から、僕が今「抑鬱状態」にあるが入院によって、今は少し良い状態であることを告げた。しかし、それは一時的なもので安心できない、と言っていた。そして、
「お薬を飲むことに抵抗はありますか?」と聞かれ、僕は、
「ない事」を告げると、医師に従って処方される薬で様子を見ることになった。クスリは「パキシル」で、クスリの説明書きを見ると「こころを楽にする薬」と書かれていた。初診では病名は告げられなかったが、鬱病であることは明らかだった。ただそれが、いつまで続くのか、いつ治るかは誰にも分からなかった。
初診で「アームカット」をしていることを告げると、「分かりました。それを含めて治していきましょうね。」と優しい言葉をかけてくれた。感じのいい医師であった。僕の病気の全てを受け入れてくれそうな、この医師について行くことを決めた。後から聞いたことによると、このクリニックは北海道でも有名で、主治医は「名医」として知られていた。それは偶然ではあったが幸運なことだった。
主治医になった先生は、僕にオーバードーズしたことを「大変だったね。」といい、怒りはしなかった。そして父にも病気のことを説明してくれた。「リストカットは無理に止めさせようとはしないこと」「OD防止に薬は父が管理すること」「すぐに良くなる病気ではないので、焦って仕事を進めたり、責めたりしないこと」などを伝えてくれた。しかし、やっぱり「甘えている」と言う感情が拭い去れず、若くても年をとっても生きて行くことが僕の中では「最大の挑戦」であるように思えた。
医師は父に、「こういう心の病気は家族の援助がかなり必要です。根気よく見守っていてあげて下さい。怒るのではなく、何かできたら褒めてあげて下さい。タカシさんは自分で自分を肯定できない状態にあります。もう高校も出た年齢で、「甘えている」と思われる時があるかもしれませんが、「自分が生きていって良い」という感情を持てるようにしてあげて下さい。そして出来たら、もしタカシさんが自傷をしてしまった時には、ガーゼや包帯を使って、傷口の治療をしてあげて下さい。これは「自傷をしても見捨てないよ」とい
う信頼関係に近づきます。医師、家族、患者の信頼関係が無ければ治療は難しいです。」
そして最後に先生は、「今ままで辛かったね。もう無理しなくていいよ。一緒に治していこう。」と、僕の肩にポンポンと叩いて笑顔で僕を見てくれた。
僕は目から今にも涙が出そうになり、鼻をすすりながら、「このクリニックに来てよかった。」と心の底から思った。


季節はもう8月も終わりになっていた。

6、束の間の幸せ、永遠と思えた日々

僕とルカは一緒にいるときは精神的に健康だった。これは恋愛の高揚感が根付いている「鬱」の症状を隠しているのであろう。そして、帰ってきて1人になるとまた調子が悪くなる。僕はその気分をブログで吐き出す。


9月3日12時30分
「最近、ダメです。
時間を持て余していて、希死念慮強いし。
クスリなんて眠剤あれば寝られるから、眠剤しか飲んでない。
クスリを飲んだってACには効かない。
たんまり残るクスリはODする気もないんで捨てています。
税金でクスリもらって来て、捨てているのは、
じいちゃんが年金もらっていて、警察にスピード違反でつかまって
金払うのと矛盾しますか?
とにかく、虚しい。
刹那的に切って、犯罪起こして、死んでいきたいけど、
しない僕はバカなんだ。
病院に行って治るのと、死ぬのとどっちが先かなんて、
考えたりするけど、治す気も起きないのに、
色んな人を巻き込んでいる。
覚醒剤で捕まった芸能人と、子どもを車に乗せてパチンコしている母親と、
僕の思考に違いがどこにあるのか、とか考えたりしても無駄なんで。
ACにクスリは効かないんだよって、主治医は学んだのだろうか?
意味も無く、薬を出す。
僕が欲しいのは、眠剤ロキソニンだけでいいんだ。
だる。死にたい。」


すると、ルカのパソコンからメールが来る。
9月3日14時05分。fromルカ
「タカちゃん、こんな思考のときは何を言ってもダメだよね。
私も同じだから、無理に励まさないね。
ODしないだけ偉いよ。
私はしちゃうもん。
ACはね、どうしようもないよ。誰のせいでもない。
タカちゃんは悪くない。
正直言うと、私も1人になるとダメなんだ。
でも焦っちゃダメだよ。
鬱はじっくり、ACやボーダーも年を重ねていって、
30代後半くらいから少しずつ良くなるんだって。
本に書いていたよ。
明日、家においでよ。
おいしいチャーハン作ってあげる。^^」


また違う日には、
9月6日2時10分
「ただいま午前2時でございます。
何やら昨日は疲れたようで、早めに夕食を取り、6時過ぎには、
寝ていたよう。
眠剤なしで。
2時起きるのは早いなぁ、と思っていたら眠剤なければ、
朝までは無理ですよね。
でも今飲んだんですけど、朝方寝て昼に起きる、
ということになってしまうのではないかと思う。
まぁいいか。
なんだかさ、最近前よりも死にたいって思うことが多いな。
折れた心はなかなか元に戻らない。
今も死にたくなった。
長くは生きられないんだろうな。
死ぬとしたら、クスリかな。
切りたいし、クスリはきちんと飲めてない。
処方された半分も飲んでいない。
どうせ効かないし、副作用が多いし。
寝るか。」


9月6日7時43分 fromルカ
「私もさ、死にたいよ。
でも、死んだらお父さんやお母さんが悲しむから生きているだけ。
自分のために生きているんじゃないっていうのが悩み。
死ぬなら私もクスリだね。
タカちゃんみたく深く切れないし。
学校も退学しようかなって思っている。
行っていても教師になれないし、教育実習なんて考えただけで
怖い。
どうしようもないよね、将来。
何も無いなら、生きているほうが怖い。
でもね。
私、タカちゃんを守るよ。
だから、タカちゃんも私を守ってね。
そうしたら生きられるんじゃないかって
勝手に思っている。
嫌に思ったらごめんね。
タカちゃんがぐっすり眠れていますように。^^」


9月10日、北海道の夏は短い。お盆を過ぎると、もう涼しくなってくる。そんなある日、僕はルカの声が聞きたくて電話をした。そしてルカの異常さがすぐに分かった。
「どのくらい飲んだの?」
電話口で呂律が回らない君に聞いた。
「うーん……300くらい、かな……。」気まずそうに君が言った。
300錠!?
僕は驚いて車の鍵を取った。
「今から行くから!カギ開けといて!」
僕はその時、自宅で親友のトモヤと一緒に、テレビゲームをしていた。トモヤにルカが大変な状態であることを告げると、それぞれの車2台でルカのアパートまで飛ばした。雨が降っていたが道は空いていて、僕は法定速度を遥かに上回るスピードを出していた。1時間ほどでアパートに着き、トモヤは「先に行っていて!」と車で何処かに行った。

僕がルカの部屋の前に着くと、ドアを開けルカを探した。ルカの部屋は入ってすぐ左にキッチン、右にトイレとお風呂、一部屋ある奥にセミダブルのベッドがあり、ルカはベッドで布団に包まって寝ていた。
「ルカ?大丈夫?」
僕は、ルカの頬を軽く叩いて起こした。
「……う、うん。大丈夫。……眠い。」ルカは、少し目を開けて答えた。良かった。無事だった。ODをたまにする僕にも、300錠はかなり驚く量だった。僕が部屋を見渡すと、丁寧に並べられた青と黄色の2つのゴミ箱の中に、薬の袋を見つけた。袋は燃えるゴミ、クスリのシートは燃えないゴミに捨てられていた。OD をしてまでも君の性格が伺われた。
サイレースレンドルミンリスミー……。眠剤がほとんどだった。薬の量は膨大だったが、意識がはっきりと失ってはいなく、眠気がすごいと言う事でとりあえず大丈夫そうだ。むしろ、意識が消失していないことに驚いた。ゴミ箱を見ると300錠は無さそうだった。あっても100錠くらいだろう。僕は胸をなでおろした。本当に300錠も飲んでいたら、電話になんか出られない。その時、トモヤが部屋のチャイムを鳴らした。
「どうだ?大丈夫か?これ買ってきた。」
「何?」
「生理食塩水。これ飲ませた方がいいよ。」
そういって袋を僕に渡した。
「そうか。ありがとう。」
トモヤは僕よりも遥かに気が利いていた。
僕が台所にコップを取りに行くと、流し台に十数本のタバコを吸った灰皿があった。相当苛ついていたんだな、と思った。僕はタバコを吸っていた彼女に安易に止めさせようとしていたことが彼女を追い詰めることになっていたのではなかったのかと思い、止めさせた自分が情けなかった。
「ルカ?」僕とトモヤは、ルカの方に行った。青白い肌をした君が目をつぶっている。
「俺、帰るわ。」トモヤはそう行って玄関に行った。
「ああ、悪かったな。これありがとう。」そういうと、友達に手を振った。
僕は「ルカ、これ飲んで。」と言って、コップに生理食塩水を入れると彼女に飲ませようとした。
「眠い。」そう言うと君は口を閉じた。どうしても眠いようだ。当然だ、あれだけの薬飲んだのだから。明日になったら病院に連れて行こう、そう思って僕は飲ませるのを諦めた。
僕は泊まるつもりは無かったので、眠剤を持ってきていなかった。でも、このまま帰るわけには行かない。

僕は彼女の布団に入ってみたが、当然眠れるわけは無く諦めて、電気を消した部屋でテレビを見た。6畳半の部屋にはベッドとパソコン、テレビ、CDラジカセ、本棚があった。
パソコンの横には花瓶にオレンジの花が飾ってあった。以前見たことがある。金木犀(きんもくせい)の花だ。やっぱり女の子だな、とルカの可愛らしい一面を見て思った。本棚を見てみると、教育関係の本、鬱やアダルトチルドレン境界性パーソナリティ障害の本が多数を占めていた。ルカもまた田中先生にACだと言われたのだろう。ぺらぺらと斜め読みをして、テレビの下にCDケースがあるのを見つけた。山崎まさよしスガシカオのCDが多い。僕はミスチルをよく聞くので、これらの歌を聴いたことはあまり無かった。音楽の趣味は、どうやら違うようだった。
一番端にDVDが1枚あった。「17歳のカルテ」。確か以前に少し見たような気がする。僕はルカの邪魔にならないように音量を小さくして再生させた。「スザンナ」という主人公の女性が大量服薬で自殺未遂をし、入院して、そこの病棟の中でいろんな人に出会い、葛藤していく。僕は途中で具合が悪くなった。ODした時の嫌な記憶が蘇ってきた。あまりにも自分に共鳴する。頭が痛い。僕はDVDを見るのを止めて、テレビドラマを見た。ルカもこのDVDを見て、共感したのだろうか。ふとルカを見ると、不謹慎にも死んでしまったように深い眠りについているように思えた。
その時、僕は不意に君が泣いているところを見たことが無いことに気付いた。笑っている時の天使のような笑顔、そして時に見せる遠い目をした切ない顔。コロコロ変わる表情に泣き顔はなかった。
「頑張りすぎるんだ、ルカは。」そう思って、君が目覚めたときにこの気持ちを忘れていない様に、文字にして残して置いた。
「嶋田ルカ様、お目覚めはいかがですか?たまには泣いてもいいんだよ。僕が彼氏として受け止めるから。それぐらい出来るから。任しておいて!PS.タバコは程々にね。」


そしてある日、一人で家にいる時にこんなブログを書いていた。
9月13日20時21分
「ご飯食べないとおなか減るくせして
腕は切っても痛くない。
自分のことで一つだけ正しいこと。
それは子どもを作らないこと。
いたらまともに育てられない。
多分、ボーダーになる。
ボーダーの子はボーダーだ。
それが分かっていて子ども作るのは
犯罪に近い。
「そんなことはないよ」という人は
きっと幸せな人なんだろう。


9月14日01時12分fromルカ
「残念か分からないけど、私は幸せな人になりたいな。
私もボーダーだよね。
弱いもん。
皆みたく歩けないし、すぐ転んじゃう。
その度ODして……。
でも子ども欲しいな。
この前いっぱいODしちゃったから眠剤無くて
あんまり寝られないの。
教育大行ったのも、小学校の先生になりたかったから。
私、一人っ子だから、タカちゃんが羨ましい。
こんな私でも、子ども生んだらボーダーになるのかな?
少し、寂しいな。
治りたいな。」


僕は家では常に黒い闇、虚無感に襲われていた。それでも9月の中旬になろうとしていた頃、二人は幸福と思える日々を過ごしていた。
学校も仕事も無い僕は車で1時間半くらいかかる道を、週2くらいでルカのところに通っていた。ルカがODをしたときも、連絡しないで急にルカのアパートに行った時もきれいな部屋を見て、それは僕が来るから片付けたのではなく、心から綺麗好きだったのに気付かされた。
「ねぇ、買い物に行きたい!」と昼食を食べた後に、ルカが急かす様に僕を外に誘った。
地下鉄で札幌駅まで行った。ルカは東京にいたのにも関わらず札幌の街に詳しく、僕の手を取ってそそくさと僕を引っ張っていった。
「これ買おう?」と僕に言ったのは、若者の集まるデパートの8 階にあるシルバーを売っているお店だった。
「指輪?」僕が聞くと、
「うん。」と君は嬉しそうに言った。
そういえば彼女は年頃の女の子とは違い、指輪もマニュキアもピアスもしていない。それどころか、おそらく化粧もしていない感じだった。でもその姿は健康的で、とても魅力的に見えた。
そして僕は、彼女が食後に薬を飲んだのを見たことが無かった。僕は朝昼夕と薬を飲み、寝るときには眠剤を飲んでいる。彼女は薬を処方されていないのではなく、貯め込んでいたのだ。僕はそのことに気付くのが遅すぎた。僕はお金をあまり持ってきていなかったので、またにしようと言おうとしたが、周りを見てみると500円から1200円位の安いものばかりだったので安心した。
店内は、授業を終えた女子高校生ばかりで混雑していた。黄色い声でとてもにぎやかで、通路を通るのが大変だった。
居心地が悪く、「僕、これでいいや。」と適当に選ぶと
「これはだめ。ひ弱すぎる。」と言って、幅が1センチくらいある頑丈そうな指輪を取った。
「タカちゃんのはこれ。これをください。」と言って千円を出した。
「はいプレゼント。」と言って、左手の僕の薬指にはめようとした。
「ええ?つけるの?」と指輪なんてしたことの無い僕は最初は嫌がったが、彼女を喜ばせたくて(仕様が無く)つけた。こんな安いものでも喜ぶ君を見て、僕は改めて愛おしさというものを感じていた。
「ルカはどれがいいの?」と聞くと、
「ねぇ、これがいい。」と女の子らしい繊細な指輪を見せて言った。
「いいね。きっと似合うよ。」と僕が言うと、僕は800円のリングを買ってルカにプレゼントし左手の薬指にはめた。ルカはペアリングが欲しかったのだ。日常でも鬱状態であることの多い僕がこんな感情を持てた事は、彼女のおかげだった。
帰る途中、喫茶店により、コーヒーとショートケーキを食べた。ルカが連れてきてくれたお店で、味に申し分は無く、ルカは何度も指輪を見てニコニコしていた。本当にうれしそうだ。
「小銭いっぱいあるから僕が払うよ。」と言って、財布から小銭をテーブルの上に出した。
「全部でいくら?」と僕が聞くと、
「1400円。」とルカは即答した。さすがは家庭教師をするだけはある。計算が速い。僕が会計を済ませに行くと「1400円です。」と言われた。正解!ルカは頭がいい。教育大学に受かるような頭は、僕の作られた「点数の取れる人」とは違っていた。こんな簡単な計算でさえ、僕は時間がかかる。
リングを買って帰る間、手をつなぎながらルカが言った。
「なんだか病気治ったみたいだね。毎日楽しいもん。このまま「鬱」無くならないかなぁ。」
と言って、楽しそうに前を向いていた。まるでこれから先の未来を見据えた目だ。
「大丈夫だよ。多分このまま治っていくんだよ。」と僕はルカに言い、僕達はルカのアパートに戻った。雨上がりの街はキラキラ光っていた。ルカには言わなかったが、気分の調子のふり幅が極端なのは2人とも家庭に問題があって、田中先生の言うと通りACで、ルカもACなのだろうと思った。でも、その時はそんなことはどうでもよかった。それほど幸せだった。
「ルカ、ルカのお願い聞いてあげたんだから僕のお願いも聞いてよ。写真撮ろう。二人の写真。僕はルカの写真が欲しいな。」ルカは、うんと頷いて笑った。ルカも欲しいようだ。
しかしその笑顔を見られるのもあと半月程だった。幸せなんてそんなに長続きはしないものなのだろうか?もし戻れるものなら僕はこの時に戻ってルカを離しはしなかった。


9月14日20時8分
今日の昼間は楽しかったな。
彼女とペアリングを買ってしまった。(照)
でも、楽しかったのはここまで。
今日はちょっとハードだった。
疲れた。
シニタイ。
車の不具合で父に電話した時、
「今どこにいるんだ?」
「札幌の北区。」
「なんでそんなところにいるんだ!!」
と怒鳴られました。
怒鳴られる意味が分からない。
父は自分のミスには甘いくせに、人には厳しい。
普通に社会で適応できる人間ってこういう習性なの?
僕はボーダーだよ。
親にまでこき下ろされたら、死ぬしかないじゃない。
切ればいいの?
ODすれば許されるの?
もういいよ。
何も食べない。
餓死するんだ。
僕がやせ細っても、父は気付かない。
死ねばいいの?


9月14日22時12分。fromルカ
「タカちゃん、車故障しちゃったの?
大丈夫?
ごめんね。うちに来るのに乗っていたんだもんね。
お父さん、怒らせちゃってごめんなさい。
切る気持ちも、
ODする気持ちもわかるから。
出来ればしないで、ね。
車の修理代、半分出します。
でも、昼間楽しかったって言ってもらえて、
うれしかった。
タカちゃんの写真、大事に飾っています。^^」


9月も20日になり、僕とルカは札幌から石狩までドライブをしていた。
「ルカ、免許持っているの?」
「持ってないよ。」
「取らないの?」
「うーん、取る。でもうちの親が心配すると思う。事故ったら親、飛んでくるよ。だから運転させてもらえないと思う。」
「じゃあ、初心者マークの僕の車に乗っているのもダメなんじゃないかい?」
「それはいいよ。でも片方だけ助かるのはいやだね。ぶつかる時は思いっきりぶつかってよ。」おいおいっ!そんなことを話しながら僕達は紺のコルサで窓を半分開けて走っていた。
秋の匂いがする。もう秋なんだ。でも秋だというのに、太陽はどこまでも高く、裏山を上がったあの夏を思い出した。秋と夏の狭間の貴重な時間を、僕と君は一生懸命に生きていた。すると海が見えた。
「タカちゃん、海だよ!海!」
「当たり前だよ、石狩なんだから。函館なんて海に囲まれているじゃん。」
「二人で見るから意味があるんだよ!」ルカは窓から顔を出した。
「すっごーい!!」ルカは窓から顔を出していった。」
「危ないって!」
「タカちゃんなんか叫んで!」
「何叫ぶんだよ。」
「わかんない!でもなんか叫びたい気分!気持ちいいー!」水面は太陽の光でキラキラに輝いている。僕は窓を少し閉めて、ルカの顔を車の中に戻した。
「今日はサイコーに気分いい!」
「ルカ、病気どっかに飛んでいったね。」
「うん、飛んでいった。」ルカはうーん!と体を伸ばした。
「これからどこ行く?」ルカは僕の顔を見た。
「ぐるっと回って帰る。」
「えー帰るのぉ?」ルカは残念そうだ。
「じゃあどこ行くの?」
「小樽!」
「却下!道がわからないよ。行っても帰ってこられない。」
「じゃあ、今度道の予習して小樽行こうよ。ガラス館行きたい!」
「僕は裕次郎記念館行くよ。」
「おっさーん!」と言ってルカは笑った。2人でいるとこんな気分になれる。最高だ!!
「タカちゃん、この気持ち、忘れたらだめだよ!人生悪いことばっかりじゃないんだよ!」
ルカは僕のブログに対しては、メールでしかコメントしない。会っているときを存分に楽しんでいた。そして僕達は予定通り、石狩辺りをぐるっと回って帰った。


9月26日19時44分
「僕の治療は、ティッシュを丸めて傷口に当て、
リストバンドで固定するだけです。
なので、血が止まりません。
縫うのは死んでも嫌なので縫いません。
今まで2回縫いましたが、良いことありません。
血が止まらない間は切らないで済む。
止まったら、また切るでしょう」


9月26日21時08分fromルカ
「タカちゃん、切っちゃいましたか?
何かありましたか?
何かあったら私が話し聞くよ。
いつでも電話してね。
待っています。^^」