「死んでいった君へ、、、。」

「あの時、死んでいたらいいのか今でも分からない。ただ今生きているのは、君を想う人を存在させるだけかもしれない」

1、進路と絶望

高校3年の時、僕は殆ど不登校であったが、2年の時の素行の良さと最低限の出席日数で、なんとか高校を卒業できた。大学に受かる自信も無く、専門学校でやりたい事も無いので、僕は進学をせずに、何をやっているのかもよく分からない会社で、アルバイトとして働くことにした。
職種は営業職で、とある制度の会員を募集するというものだった。この制度、実は一般の人には殆ど知られていないものなのだが、当時の高卒には魅力的な18 万円という月給に惹かれて、入社したのだった。
僕の家は両親が離婚をしていて、父子家庭である。食費は父が出してくれたが、給料は自分の欲しい本や生活費に使い、そして最低賃金で働いて、苦労をしている母親に仕送りをしたいと思っていた。それが不登校だった僕が両親への恩返しと思い、仕事をするきっかけだった。


4月だというのに北海道は桜が咲く兆しもなく、一桁の気温で、朝晩にストーブをつけないと寒い。
僕が働くことになった札幌中央区にある営業所は、4 階建ての雑居ビルの2 階に入っていて、16 畳位の部屋で壁沿いに10台の電話が置かれているだけの、無機質な空間だった。そこの空間では、まるでカセットテープをかけている様に、電話で勧誘するパートの女性の声が繰り返されていた。僕の母と同じくらいの年齢に見える女性は、壁に向かっていたり、メモ帳に首をもたげたりして、8人位の様々な声が聞こえて、さながら雑踏の中にいるような気分になった。僕は、ここで本当にやっていけるのだろうか、と不安を感じたが、なんでもやればできるはずだと思い、僕の社会人生活はスタートした。
「はい、これがマニュアルだから頑張ってね。」
研修期間は殆ど無く、入社3 日目に突然、上司からそれだけを告げられて、僕は渡されたマニュアル本だけを頼りに、1 人で住宅地を回ることになった。
一軒家のドアのチャイムを押すと、奥の方から人の歩いてくる音が聞こえる。足音で、大体どのような人かが分かる。ある家では専業主婦の女性に、「月々3千円を積み立てることで、満期の9万円になると色々な商品が、他とは違って安く買える。」と訪問して歩いた。またある家では、リタイアした、父親よりも年上だと思える人に、額から落ちる汗を拭いながら、「一日100円の掛け金でいいんですよ。」と必死に入会をお願いした。
仕事場というものはこういうものなのだろうか、と高校を卒業して初めて働く現場に僕は圧倒された。僕は踏み込んではいけない所にアルバイトを始めた気になったが、まだ数日しかたっていない。ただ努力をするしかなかった。しかし、「不登校」からいきなり「働く」というのは、かなり無理があった。そこは後から思えば、ブラック企業の類だったのかもしれない。でもその時は分からず、僕は、ただひたすら言われた通りに必死に働いた。1日200件。個人の名前の書かれた大きな地図をコピーし、団地を中心に営業をしていく。


何も分かっていない18歳の若造の話など、誰が聞いてくれるだろう。どれだけ訪問しても、契約を取れる兆しは一向に見えなかった。契約を取れないまま1ヵ月が過ぎ、初めての給料として、18万円が通帳に入金された。僕はお金を貰えたことに喜んだが、初めて給料をもらう時、上司に言われた。
「契約も取れないで給料貰うのは、どういう気分?来月から1本3万円。親戚でも親でもいいから、契約取ってきてよ。わかった?」上司はじとーっとした眼差しで僕を見て言った。後ろではテレフォンオペレーターが、10人ほどひっきりなしに電話をかけている。
「今キャンペーンをしておりまして……。」皆が同じことを言っている。壁にはパートやアルバイトで働いている人の名前が張り出され、1つ契約が取れるごとに、1つ折り紙で作った花がつけられていた。それはまるで、人間の価値をそのまま表現されているように感じた。
当然のごとく、僕の所には1つも花が無く、優秀なパートの女性は6個も7個も花がつけられている。話術が巧みなのであろうか、どういう戦略で契約をとるのか聞きたかったが、それは同じ職場にあっても企業秘密。教えてはくれない。教えるくらいなら、自分が契約を取るという雰囲気であった。
仕事を始めてからも僕は、以前から常習していた自傷行為を頻繁に繰り返していた。自傷行為とは、文字通り自分を傷つけることだ。僕の場合はアームカットだった。刃物で腕を切ることだ。人によっては手首や足、首を切る。手首の場合はリストカット、足の場合はレッグカット、首の場合はネックカットと言われる。僕はストレスが溜まったり、人生に行き詰まったりすると、腕を切る。流れる血は、ストレスとともに体の外に出ていき、傷跡は僕に生きている証を与えてくれる。それが無いと、「死」が頭をよぎる。生きるために切る。これが高校時代に、僕が覚えた解決策だった。
また僕はこの頃から、自傷行為だけでは満たされない思いを、ネット上にブログを書いていた。

                                    
4月30日20時08分
「はじめまして。ハンドルネーム「ゆう」と言います。18歳男性です。
今日からブログをつけることにしました。
実は僕は学生の時は不登校でした。
でも、何とか学校を卒業して、何にもできない僕が、
一念発起して営業の仕事を始めて1ヶ月が経ちました。
でも、契約取れません。
泣きたいです。
それでも18万円貰いました。
嬉しいけど、後ろめたい。
結果なんて出せていません。
3万円、母に仕送りします。
会うことはないけど、元気でいて欲しい。
それと上司のプレッシャー、酷いです。
人間を否定されているよう。
でも、努力さえすれば、諦めなきゃ、やっていけると思います。
皆そうやって生きています。
高校の時の様に、出社拒否したい時も正直あります。
でも何とか頑張ります。
ブログ、毎日つけようと思います。
見てくれる人なんているのかな?
まぁいいか。
でわ。」


5月から、1本3万円の契約での仕事が始まった。「馬子にも衣裳」とはよく言ったものだ。僕は、スーツを着れば一人前のサラリーマンに見えるが、鏡を見ると中身とのギャップに居心地の悪さを感じた。僕は上司の言葉通りに、契約が取れるように着慣れないスーツで、蟻が巣の中に食料を運び入れるように、必死になってひたすら住宅地にパンフレットを持って回った。
企業という女王蟻に、搾取されているのに気付きもせずに……。僕は親戚や、友達の友達まで勧誘の話しをするようになり、頭の中は約の事で一杯でだった。それで契約できたのは、親戚のいつも優しいおばさん一人、「1本入ってもいいよ。」と言われ、僕はその言葉が嬉しいはずなのに、情けなさと恥ずかしげに悔しくって、深くお辞儀をした。僕の壁に書かれた名前の上には、初めて花が1つ付けられた。「はい、1本分。」上司から手渡された給与明細には、「3万円」とだけ書かれていた。僕の今月の価値はたった3万円だった。


5月26日19時06分
「ゆうです。こんばんわ。
いきなり泣き言ですが、契約がとれません。(涙)
今月の給料は3万円です。
営業の人って、皆こんな感じなのでしょうか?
毎日ブログをつけると言って、1ヵ月間放置。
頭が契約のことで頭が一杯でブログ書けませんでした。
すみません。
こんなブログ見てくれている人なんていないでしょうね?
突然ですが僕は、アームカッターです。
高2の途中から切るようになりました。
失恋と、不登校と祖母の介護で鬱状態になりました。
アムカ、する人がいたメールください。」


6月になり、また1からのスタートだ。その頃、僕はもうドアのチャイムを押せなくなっていた。契約をとる事よりも、その前に人の目が、歓迎されていない声が怖かった。玄関フードの中に一時間ほど立ちすくみ、何もしないでパンフレットを挟んで帰る姿は、「挙動不審者」として通報されても、おかしくなかっただろう。車で営業場所まで一人で行って、公園に座りこみ時間を潰すという日々が続いた。僕が、営業の仕事をするというので、父が決して安くはないスーツを3着、買ってくれた。そのときの父の笑顔を思い出すと、悲しくなった。それでも学生のときの経験から、「やる気になれば、なんだって出来る。」と思い続けていた。


6月8日2時30分
「明日も仕事があるのに寝られません。
契約も1個もとれません。(泣)
話を聞いてくれる人なんて誰もいない。
誰にも相談できない。
最近、腕切りまくりです。
頭が働かなくなって、眠れなくて、仕事もできないで、皆に迷惑かけている。
辞めたいけど、辞めると上司に言えない。
無能な奴だと思われるのが怖い。
でももう使えないって思われている。
どうしたらいいの?
涙が出る。
死にたいです。(涙)」


僕の体調は睡眠が取れても、1時間や2時間程しか寝られない日が続いた。休日も心が休まる事がなかった。頭が鈍くなり、思考が働かない。結局、僕は契約は取れず、この月の給料は無かった。6 月末、上司から、「契約の取れない人にいられても、困るんだけどね。」と言われた。いくら1本3万円の契約だからといって、身内まで巻き込んで契約を取らせるやり方に不信感を抱いた。
その頃に、やっと仕組みは分かった。新人を採用して、親戚縁者友達を勧誘させた後に、解雇する「商法」なのだ。僕はそれが、悪徳商法だというのに気付いた。社会に出て働く人の知識には、そういう会社に対する対応の仕方があったかもしれないが、初めて働いた18歳の僕にはそんな知識も無く、もう何をする気力も残っていなかった。ただ、ただ腕を切り続け、血を流していた。


恐らく、僕の精神状態は今の状態で精神科医にかかると、「適応障害」または、「抑鬱状態」と診断されたのだと思う。その落ち込みが2週間以上続いたのであれば、「鬱病」診察される。これは今に始まったことではない。以前も同じ経験をした。高校生のときの症状がぶり返したのだ。仕事場に行くこともできなくなり、休む日が多くなった。


7月6日13時50分
「一生懸命にやっているのに結果が出ない。
僕は無能だ。
今日、職場の上司から電話がきた。
「辞めるなら辞める、働くなら働く。はっきりしてくれないかい。」
と言われた。
使えないって思われるのが、死刑宣告をされたようで、
僕という人間を全否定された。
僕という存在は、社会にはいらないゴミとなった」


僕は、高校時代に不登校になった原因と同じく、鬱状態になっていることに気付き、遅ればせながら7月の初旬に退職した。パートのテレフォンオペレーターのおばさんには、
「あなたなら、どこに行ってもやっていけるわよ。」と励まされたが、この3ヶ月間の悪夢は僕の心を蝕んでいた。
仕事を辞めてやっと解放された、と思ったが気力、気分の落ち込み、何もできないという自己卑下や、働けなく学校を卒業して何もできないという罪悪感に、ひどく打ちのめされた。「鬱」は誰にでもなる可能性があると言う。でもなりやすい性格というものがあるのだ。僕は、また「鬱」の兆候が見えていた。


7月20日02時51分
「寝られない。
頭が重い。
布団から出られない。
腕を切った。
最近毎日切っている。
死にたい。
消えたい。
頭が重くて、考えることが出来ない。
死んだ方がいい人間がいるとしたら
僕だろう。」