「死んでいった君へ、、、。」

「あの時、死んでいたらいいのか今でも分からない。ただ今生きているのは、君を想う人を存在させるだけかもしれない」

8、これからの生き方

結局のところ、僕は生きることも、死ぬと言う事も知らないで生きてきたんだ。「守ってやる。」だの「生きていこう。」だの考えてみたところで、好きな女の子一人満足に生きる事すら、させてやることが出来なかった。
ただ周りの目ばかり気にして、格好つけて生きているだけで、何十億人もいる世界の中で、自分が中心にいると思い込んで、ルカと初めて会った時、数日前に自殺未遂をしたことなんてちっとも覚えてなくて、何かこころに光が差したように感じた。

ルカが退院するときにこっちを見て目が合ったこと、初めて言葉を交わして自己紹介をした時の君の声、手を繋いで行った裏山、初めて触れた唇、幸せな日々……加速度的に仲良くなっていたと思っていたのは全部僕の自己満足で、ルカのことをしっかり見てあげてやれなかった。


僕は親に暴力をふるう様にアームカットをし、オーバードーズをし、父親や母親がどういう気持ちで僕を生んでくれて、家庭を作ってくれて、離婚した後も、僕の精神的な悩みをどんな気持ちで考えてくれていたのか、見てくれていたのかなんて考えたこともなかった。
親より先に死ぬなんて一番してはいけないことなのに、ルカにそれをさせてしまった。
全部、僕が悪いんだ。謝っても謝り切れない。まだまだ、したいことが一杯あった。小樽にだって行ってないし、動物園にも行っていない。君が浴衣を着て、二人で線香花火だってしていない。冬になったらスキーにだって行くつもりだった。そんな幸せが欲しかったんだ。僕が函館に帰せていれば、一緒にルカの主治医のところに行って本気で治るように行動していれば、そもそも僕となんか出会っていなければ、あんなことになんか……。

「あなたはあなたの人生を歩んでね……。」ルカのお母さんは言われた。
どうやって亡くなったかは、お母さんの口から教えてもらえていなかったが、想像はついた。違う。方法なんかどうでもいい。僕は君を永遠に失ったんだ。

シニタイ。

またこんな夜、君はメールくれるかな?
お願いだから、置いていかないでくれ。
一人にしないで……。
あの日に帰りたい。
眠りと覚醒を繰り返して、僕はベッドに埋もれていた。こんな夢の断片だけは覚えている。


「タカちゃん、夢ある?」
「夢?」考えたこともなかった。「うーん、夢、無いなぁ。」
「タカちゃん。普通の18歳の若者には夢があるものだよ。」
「ルカはあるの?」
「あるよ。大きな庭のある大きな家の中で、大好きな人と大好きな子どもと一緒に暮らすの。庭には沢山の花が咲いていて、子犬が子どもにじゃれてはしゃぎ回って、笑顔の絶えない生活をするのが夢。」ルカは幸せな顔をして話してくれた。
「タカちゃん、病気治そうと思っている?」
「うーん……今の状態じゃ、治すことなんてとても考えられないよ。」
「そうだよね。」ルカは笑顔で言った。「でもいつまでもこのままじゃダメなんだよ。いつかは治らなきゃ。治さなきゃいけないんだよ。いつまでも目を背けて、逃げてばかりじゃいられないんだよ。でなきゃ、タカちゃん、生きて行けないんだよ。タカちゃん、分かっている?」
「えっ?」
「このまま治らないんじゃ、一緒に生きて行けないんだよ、タカちゃん。」ルカはじーっと僕を見て言った。
そこで目が覚めた。悲しい夢だった。覚えているのはこんなことで、周りが気を使ってくれたことや、重要なことは何一つも覚えていない。 思い出そうとしても、ルカのお母さんと話した事と病院での騒動以外に覚えているのは、クリニックで彼女が死んだことを医師に告げて泣いたことだ。先生は「後追いだけはしてはいけないよ。それとも入院するかい?」と聞いてきて、僕は「大丈夫です。」とだけ告げて、薬を貰って帰ってきた。先生と後追いに関して話すことも、何を耐えることも、誰と話すことも無意味に思えていて、ただ帰って意識を消していたかった。

そしてしばらくは、アームカットをする元気も無かった。携帯のアドレスは家族とクリニック、そしてルカのだけを残して全て消去した。誰とも会いたくなかった。
ただ、携帯やパソコンで、君からのメールを何度も読み返した。周りの励ましも虚しく聞こえ、生きていく唯一の支えが無くなった。
「僕がもっとしっかりしていれば……。」と、自分を責めた。
君と過ごすはずの未来の予定が、全て消えてしまった。クリニックにいく以外は家で過ごし、また引きこもり生活が始まった。
僕は、本当に生きる希望が無くなってしまった。生きていても仕方ないと思った。でも、死ぬ勇気も無かった。僕は薬を2週間分もらうとODをしてしまうという事で、週に2回クリニックに通い、手持ちの量を少なくしていた。

次第にアームカットの頻度は多くなり、腕の痛みも余り感じられないようになっていった。2 度、血管を切った。大量の血が流れて、床が血で赤黒く染まった。市販の薬でODしても、死ねるようなものではなかった。練炭や首吊り等も考えたが、僕には出来なかった。
生きているとも死んでいるともいえない生活が続いた。
医師は僕の引きこもりを心配して、「デイケアに通ってみないかい?」と僕を誘った。ずっと家にいて悶々しているのは、精神衛生上良くないと言っていた。しかし「用事もないのに、外に出られない。」と言っていた僕に、デイケアを提案した。「人間関係で傷ついたこころは、健全な人間関係によって癒される。」と言っていた。僕は「少し考えさせてください。」と言って、帰ってきた。
家に帰って来て、ソファに座った。僕もこのままではいけないと思い、一ヵ月後、デイケアに見学に行くことになった。
もう12月になっていて雪も降り始め厳しい冬になりかけていた。

ある日、僕は自分の病名は何であるか先生に尋ねた。「鬱病」「社会不安障害」「境界性パーソナリティ障害」だそうだ。でもまだ診察を始めて、それほど月日が経っていないので、あくまで今のところ予想される病名だった。「統合失調症」の疑いもあるそうだ。僕のアームカットの衝動性が精神病の域に入っているからだ、と先生は言っていた。
町の役場に申請すれば、医療費公費負担(現自立支援法)で精神科関係の医療費が公費でまかなわれる制度があることを知って、診断書を書いてもらった。生活の殆どに援助を必要としていて、就労はほぼ困難。予後は不良となっていた。僕は思っていたよりも重い病状に、生きていても意味が無いのではないかと思った。父もその頃には「就労」について何も言わなくなっていた。

そして予定通り、デイケアの見学にも行ってきた。そこではスポーツやクラブ活動、カラオケやゲームなどをしていて、18 歳だった僕は最年少だった。通所している人は皆、心に病を抱えていて、18 歳から60 歳近くの人がいた。
僕は「少し考えさせてください。」と言った。まだルカのことで頭が混乱している状態であったので、デイケアどころの話ではなかった。でも、いつかは一歩踏み出さなければならない日も来ることも知っていた。
そんなどん底の僕に一つの光を与えてくれたのは、インターネットだった。ネットの世界が現実よりも、遥かに希望を持てるものがあった。ネットを見る時間が長くなり、引きこもっていることが多く、周りを心配させたが、ネットの世界では少しずつ社交的になれた。現実世界よりも自分を出すことが出来た。そして通所を誘われていたデイケアのホームページをたまたま見つけ、僕の気持ちを後追い後押しさせてくれた。

ルカは結婚に憧れていた。僕は、
「働けないから出来ないんじゃない?」と言った時、
「ココロの病気は、事故にあって骨折しているのと同じ。いつかは治るよ。焦ることは無いよ。」と言っていた。
僕は、そんなことを言っていたルカが先に亡くなった事に関して「ずるいよ」と頭をポンと叩きたかった。君はきっとクスッと笑っただろう。

1ヶ月程して、デイケアに通所することになった。年末に僕は19歳になっていた。ルカは永遠に18歳のままだった。
そこはかなり自由なところで、プログラムに参加するのも自由、寝ているのも自由、マージャンするのも自由なところで、最初は緊張をしたものの、思ったよりも早く慣れる事が出来た。
デイケアでは僕は、テレビのあるあまり人のいない、大きな部屋の端に座ることが多かった。同じところに、山路さんという40代の前半の優しい男性がいて仲良くなった。山路さんは、白髪は全然生えていないが、「最近禿げてきてさぁ。」と笑わせてくれた。山路さんは、僕にデイケアでの生活の色々なことを教えてくれ、おかげでデイケアの生活になれる事が出来た。山路さんのおかげでデイケアを続けられている、といっても過言ではなかった。

ネットや「死」のことで頭がいっぱいだった僕に、先生の言っていた通りデイケアに通所することは精神衛生上、非常に良いことだった。年齢の近い人もたくさんいて、人と話す機会も増えた。そこには引きこもりの人や、鬱病の人、統合失調症、それにどこが病気なのかわからない人もたくさんいた。
僕はネットと病院だけだった生活から抜け出して、ルカのことしか頭にない状態から、1歩抜け出した。でもこれは「ルカを忘れた事ではない。」と言う事も、しっかり頭に打ち付けていた。

「ルカのためにも……。」と立ち上がらなければならなかった。僕はその時か
ら、再び前を見ようと思った。そして、いつか社会に出られるように何とかしようと思っていた。