「死んでいった君へ、、、。」

「あの時、死んでいたらいいのか今でも分からない。ただ今生きているのは、君を想う人を存在させるだけかもしれない」

5、生きる意味について、退院

ある日、曽根さんに、
「ルカちゃんもアムカするの?」と聞かれた。
「いや、しないよ。」と僕が言うと、
「腕に包帯巻いていたよ。アムカじゃないのかな?」と言った。ルカはOD をしても、アームカットはしていない。僕は確かめる為に会いに行くと、
「結構すっきりするね。びっくりした。」と、ルカは言った。ルカは僕のまねをして、アームカットをしていた。僕は複雑な気分になり、
「もうしちゃ駄目だよ。」と言うと、
「うん。やらない。だってOD の方がすっきりするもん。」と、笑顔を見せた。彼女のOD癖は、もう後戻りの出来ない状況になっていたのだった。僕は、そんな無邪気な笑顔の裏にあるルカの心に、気付いてあげられなかった。
「でもね、こうすれば一人前だよ。」
そういって君は自分の右腕をめくって、僕の左腕にそえた。僕の半分くらいの、白いというよりも青白い右腕。リストバンドを取ると、左利きだった僕の右腕は上腕から手首まで、深いのから短いの、浅い傷から深い傷まであり、紫色になっていて、他人が見ると引くような腕だった。右利きだったルカは、余り深くないけれど、規則正しく並べられた直線の傷跡が刻まれていた。
傷ついていない、僕の左腕と君の右腕。僕たちの半分ずつ2 つあわせれば、傷の無い体。
「2 人でなら生きていけるよ。」
そういって、君はいつもの笑顔を見せた。その笑顔はとても魅力的で、まるで天使(と言えば大げさだが)を思わせた。僕は、胸が高鳴るのを抑えるのに必死だった。ルカには何でも話せる。僕は、同士をも得たような気持ちであった。その後になって、僕は彼女を閉鎖病棟に入れない主治医を恨むことになった。そうしていれば、君を手放すことは無かったのだと思ったからだ。でもそのときの光景からは想像できないくらいに、君は無邪気だった。


僕は鬱の状態にあったからか、年齢的なものなのか分からないが、「人間は何故生きていくのか?」と言う哲学的な疑問に駆られていた。このとき愛読していた本は、柳田邦男さんの「犠牲サクリファイス」であった。
「犠牲サクリファイス」は、ノンフィクション作家柳田邦男さんの次男洋二郎さんが、自死されたことによって書かれた本だった。洋二郎さんは重篤な神経症を患いながらも、懸命に生き、悩み、そして亡くなった。
彼の生きかたに共感し、辛いことがあると何度も読み直した。働けないことに悩み、緊張しすぎて吐きながらもボランティアを4 ヶ月も続けた。
今の僕にそれが出来るだろうか?ただ逃げて、挑戦する気力も出ないことを理由に、甘えているだけではないのか?
柳田邦男さんは洋二郎さんのことを書くことで、同じような人に何かメッセージを送っているのではないだろうか?そう考えると、生きることの重要性、気力が出なくとも焦らずに「1 歩1 歩生きる」のが親に対する子の生き方、だと考えるようにもなっていた。洋二郎さんと僕は同じ「戦友」の様に親しみを感じた。
また、洋二郎さんも「生きる意味」について考え、リチャード・ドーキンスの「利己的な遺伝子」が文中に書かれていたので、僕も読み、哲学ではなく、遺伝子学的に人間の「生きる意味」を見つけた。
どの哲学書よりも、「利己的な遺伝子」は明解であった。その後から僕は、哲学書や啓蒙書は読まなくなった。「生きる意味」の疑問は解決した。いつ死んでもそれは遺伝子によるものだと思い、死ぬことが出来ないのも、それは遺伝子学的なものなのだと考えた。
しかし柳田邦男さんのいう、「二人称の死」についても実感した。人が死ぬのは解明できても、「あなたが死ぬ」、「家族が死ぬ」と二人称の人間が死ぬことの苦悩は科学では証明できないのではないか、とも思った。
僕は、曽根さんと大森さんの病気のことは聞いていたが、あらためてみると皆、話している限りどこが悪いのかわからない人達だった。でもそれぞれ問題を抱えている。僕とルカは鬱病、曽根さんは躁鬱病、大森さんとヒトミちゃんは統合失調症感情障害であった。
曽根さんは旦那さんとお子さんがいて、調子の良いときに外泊で家に帰るのだけど、予定よりも早く帰って来て泣いている姿を度々見せた。 やはり家に帰ると子どもと上手く接すれなく、食事を作ることもできないようだ。そのことで、曽根さんは自己嫌悪に陥るのだが、若干18歳の僕には励ましてあげられる言葉は思いつかなかった。
「曽根さん、頑張っているのわかるよ。」としか言えなかった。でもそんな彼女も病院で2,3日すれば普通のおばさんに戻って、
躁状態の時に80 万も使っちゃってねー。」とか、
「今日お風呂で、ルカちゃんの裸見たよー。」とかいいながら笑っていた。彼女は僕達のムードメーカーだった。彼女に落ち度があるわけではない。病気がみんな悪いのだ。僕はそんな曽根さんを、とても優しくしてあげたくなるのだった。ルカと行動を共にしているうちに、無気力で悲観的な僕が、「僕が心の病気になったから同じ病気の人の気持ちも分かるようになったんだ。」と、前向きな考えがいつの間にか、出来るようになった。
大森さんは生活保護で生活しているのだが、少ない生活費の中からよく缶ジュースを奢ってくれた。自分では、「人に奢ってはだめ」と以前忠告してくれたのだが、僕とルカは別物らしい。年齢的に僕が、結婚していたら出来たであろう、「自分の子ども」のように接してくれていた。よく「タカちゃんのような子どもがいたらなぁ。」と言っていたが、その度に「でも仕事もできない人間ですよー。」など、と言ったりしていた。大森さんは多くの患者に好かれていた。
他の患者の病気になった話を聞いては涙を流し、共感して聞くような人であった。僕が、
太宰治を読む。」というと、
「あんなの読んじゃダメだよ。もっと楽しいの読まなきゃ。」と、言っていた。僕がある日、
アームカットが止められない。」というと、
「大丈夫。焦らないで。きっと止められる。でも無理に止めちゃだめよ。諦めなきゃ、誰の上にも陽は上るんだから。」と手を握りながら言ってくれた。
「鬱の様な気分障害はクスリと時間が解決してくれるから、早まった真似をしてはだめだよ。治るから。」と僕を励ましてくれた。大森さんは時には親のように、時には友人のように接してくれるよき理解者で、尊敬できる人だった。
ヒトミちゃんは小柄な女性で、20代後半で2人の子どもがいた。しかし結婚したことはなく、シングルマザーで子供のような方だった。育児能力がない、と判断され施設に子どもを預けていて、月に何回か面会に行くそうだ。
薬の影響で前につんのめりながら小走りに歩いていて、自分が猪年だと言う事で、「猪突猛進なんだ。」と言って笑っていた。でも「やっぱり子どもといたい。」と言って、面会日には少ない生活保護費の中から、子どもの好きなぬいぐるみを買って行く、と言っていた。
僕は、ヒトミちゃんは子どものために頑張りたいのだが、その頑張り方が分からない、それを教えてあげられない自分の非力さと未熟さ加減に、大森さんのようなことが言えなくて、もどかしかった。一生懸命なヒトミちゃんは、人間として素敵に見えたお風呂は大浴場で、曜日によって男性と女性が入る曜日が決まっていた。ルカはお風呂から上がった後、いつものように売店前に来ていた。バスタオルで頭を拭いただけだったので僕は、
「ドライヤーしないの?」と聞くと、どうやらしないらしい。風呂上りのルカは艶かしいというよりも、元気な男の子といったイメージだ。直毛でショートカットのルカの髪質は羨ましかった。僕はドライヤーで乾かさないと、くせ毛なので上手くセットができない。
そういう話をしていると、「ルカちゃーん。」と親しげな声を出して、一人の男性が話に入ってきた。菊池さんだ。
「またODしたんだって?だめだなぁ。」と言って、ルカの頭をなでた。ルカは気まずい顔で僕をちらっと見た。この時点で「菊池さん」は「菊池」になった。僕は菊池の行動を見て、むっとした。そして大森さんが遮る様に菊池を無視して、
「親戚に双子の女の子がいてね、今年から高校生でお金がかかって大変なんだ。」という話をすると、菊池も、
「家にも親戚に双子の子がいて、今年高校なんだ。」と言ってきた。曽根さんは僕に目配せをした。そう言うとすぐに、菊池は病棟の方に去って行った。
「虚言癖。」と曽根さんが言い、「ルカちゃんに気があるんだよ。」と付け加えた。「あいつ嘘つきなんだよ。都合よく同じ高校生になる双子が、親戚にいるわけないじゃん。」
「友達がいないんだよ。」と、大森さんが言った。そして、そういう話をしていると「嶋田ルカさん、嶋田ルカさん、病室にお戻りくださーい。」と放送がかかった。
「わぁ!最悪!館内放送だ!はずかしー。」とルカは言ってみんなは笑い、ルカはそそくさと、階段を子犬のように駆け上がっていった。
少ししてルカが戻ってきたとき、ベンチの前をさっちゃんが泣きながら小走りに走り抜けて行った。その後を看護婦さんが追ってきている。さっちゃんが売店の前でつかまると、
「嫌です!」と叫んだ。
看護婦さんは、「じゃあご飯食べられるの?」と問い詰めた。
「食べます!食べるからやめてください!」と、看護婦さんの手を細い腕で振り切った。
「今日食べられなかったら、先生は「閉鎖に行ってもらう」って言っていたよ。嫌でしょ?閉鎖。がんばって食べるんだよ。」最後は諭すように看護婦さんは言って、さっちゃんが落ち着くところを見てから、ナースステーションのほうに戻って行った。僕達はこの光景を、さっちゃんには悪いが少し面白い寸劇を見るように、興味深く見ていた。ルカも興味深そうに見ている。
「大丈夫?さっちゃん。」と、曽根さんが聞いた。
「ご飯ちゃんと食べないで体重減ってきたから栄養剤点滴するって。」さっちゃんが静かに言った。
「栄養剤入れられると太るから。」さっちゃんはルカの隣に座った。
「ルカちゃんは食べられるの?」
「う、うん。一応食べている。」ルカは少し困ったように言った。
「いいなぁ、ルカちゃんは。彼氏もいるし、ご飯も食べられるし。」ルカはこっちに視線を送ったけど、僕は気恥ずかしさもあって苦笑いをしていた。


8月22日20時13分
「今日は同じ病棟に人と、いろんな話をした。
皆それぞれ事情を抱えている。
僕なんて父に養ってもらって恵まれている。
それなのに死のうとするのは何故だろう。
病気を抱えたまま生きるのと、さっぱり死ぬのが
どちらがいいのかなんて思考が出るのは
やっぱり病気のせいなのだろうか。」


次の日の午後、3階のテレビのある談話室で、一騒動が起きた。
僕とルカが座っている前で、高橋君という車椅子の20代の男性が、不自由な体を震わせて怒っていた。どうやら「死にたい」と言ったのを、他の患者に咎められたらしいのだ。
そのさまは、今まで溜まっていた溶岩を爆発させるように激しかった。
「そんなこと言ったらいけないよ!」50代くらいの女性が声を荒げた。高橋君は興奮して治まらず、箸のケースを、もう一人の車椅子の男性に向かって投げつけた。それは当たらず壁に当たったが、高橋君は泣いていた。怒りと悲しみの堤防が破れたように、気持ちが涙とともに流れた。その音を聞きつけて、スタッフが3人ほど駆けつけてきた。
「なんで死にたいって言ったらいけないの?」言葉も不自由だが、大きな声なので聴きとれた。
聞いたところによると、高橋君はもう3年ほど前から入院しているらしい。交通事故にあって体が不自由になり、その中で精神的にも参ってしまったというのだ。交通事故などで怪我をするのは体だけではない。脳にダメージを受けると、「高次脳機能障碍」という障碍が出る。20代で「動けない」となると、自暴自棄になるのは仕様がないことだ。
「高橋君の気持ちわかる。」ルカはとボソッと言った。
「辛いね。」と僕が言うと、
「辛いよね。」とルカはそう言って、いつもの笑顔ではなく、初めて会った時のような遠い目をして、思いつめた表情で6階に戻っていった。
高橋君と気持ちがシンクロしたのだろうか?ルカはたまに遠い目を見せる。踏み込まれたくない、ルカだけの世界があるのだろうか。簡単には生きていけない、ルカも生きることと戦っているのだろうと思った。僕は、彼女の力になりたいと本気で思った。それには、僕が自分自身の戦いから勝たなくてはいけない。そうしたらルカも……。そう思った。
僕は騒動が終わってから、小さいテレビのある和室に座ってテレビを見ていた。林田のおばさんもいて、
「伊藤君、服いろいろ持っているけど似合っていいねぇ。」と言ってきた。僕は、
「そうですか?」と言って照れたが、
「スタイルがいいからだと思うよ。」と、横のほうから声がした。三浦さんだ。
「何センチの何キロ?」と林田さんは聞いてきた。
「172 センチの62 キロです。」僕は少し照れくさそうに言った。
「いいなぁー。痩せていて。」三浦さんが言った。三浦さんは太ってはいない。背が低くて、普通体型だ。
「私の初恋の人に似ているんだよねー。伊藤君。」と三浦さんは言った。
「はぁ、そうなんですか?」今度はちょっと困ったように言った。同窓会で言われるような、「小学校の時、好きだったんだよー」的なものと、同じ感じの気分だった。
「入院して最初のころ、落ち着かなくて伊藤君の後、つけて回ってたんだよ。邪魔くさかったでしょ?」三浦さんは笑いながら言った。
「そうだったんですか?僕も話す人がいなかったから、全然邪魔なんかじゃないですよ。」
そういうと、
「ならよかった。」と言って、
「伊藤君みたいな彼氏が出来たらいいけど、私もうおばさんだからなぁ。」と言った。
「その後夜中におなか減っちゃって、カップラーメン食べている途中に眠剤効いてきて、ラーメンの中に顔つけちゃってやけどしてさ。」と三浦さんは笑いながら言って、たわいのない話で盛り上がった。僕は三浦さんにやはり好かれていたと知って、年齢は関係なく素直に嬉しかった。入院してそんなに経っていないのに皆、旧友のように接してくれる。とてもありがたいことだ。

それから2日程して、3階の女性部屋に空きが出来た。僕は、まるで何かに合格したかのように胸が高鳴った。ルカは、「3階に行きたい。」と言っていたので、報告しようと思って6階に駆け上がった。
ルカによると、「6階は時間が止まっている」そうだ。初めて行ったときは気付かなかったが、僕は6階を見渡してそれが分かった。高齢者が多くて、寝ているのか起きているのかわからない人達がたくさんいた。ラジカセから演歌が大きな音でかかっている。僕はそこの一部にルカがなっていると考えると、少し面白かった。

ルカはいつもの様に6階のテレビの前に席を陣取り、にやにやしながらテレビを見ていた。僕は鬱になってから、テレビはうるさくて殆ど見ていなかった。でも、ワイドショーを見ているルカは、テレビ大好き少女らしかった。
「ルカ!3階に空きが出来たよ!」と僕は朗報を告げるように言った。
「ほんと?」とルカは言って、僕を近くに招いた。
「もう少ししたら先生が回診で来るからその時に言ってみる!」そう言って、先生を待つことにした。
なかなかこないのでソワソワしていたら、30分程して僕と同じ担当医師の田中先生がナースステーションに入ってきた。ルカは、「行ってくる。」と言って、ナースステーションの中に入っていった。僕からは死角になっていて経過は見られなかったが、10分くらいしてルカが戻ってきた。顔は笑っている。上手くいったのではないか、と僕が思うとルカが思わぬことを言った。
「退院になっちゃった。」
「へっ!?」と僕は思ったのと同時に、田中医師について不満を覚えた。ODをして救急車で運ばれてきた娘を、2週間ほどで簡単に退院させることに、無責任さを感じた。
しかし、医師の意見は、「入院癖がついては困るし、血液検査でも異常がなかった。」からだ、というのだ。
そのあと僕はルカと一緒に、3階にエレベーターで戻った。二人きりになったので、僕は本心を伝えた。
「僕、ルカのこと好きだから。これは変わらないから。」僕はルカの目を見ていった。僕は、ルカに初めて「好きだ」といった。ルカの反応が怖くて今まで言えなかったが、これは言っておかなければいけない言葉だと思っていた。ルカはニコッとして、あの天使の様な笑顔になった。そうして3階に着くと、ヒトミちゃんにポケットから煙草とライターを取りだして「あげる。」と言って渡した。僕は以前から「煙草はやめよう。」と言っていた。ルカは躊躇っていたけれど、僕の告白でやめる決心をしたようだ。

僕は今までルカ以外に2人の女性と付き合ったが、僕が付き合ったのは好きではなく嫌いでもない相手だった。相手に言い寄られて交際をしていた。しかし僕のこころが彼女に無い分、付き合う日数も短いものだった。ルカと付き合うことは初めて心惹かれる人と付き合えたと、嬉しかった。これが永遠に続けば、と思えた。僕はルカと離れたくなかった。
僕の心の中にはルカのことで一杯だった。僕はナースステーションに行って、「退院する」という旨を伝えた。


その日の夕食前、僕は曽根さんと病棟の喫煙室にいた。僕は煙草を吸わなかったが、皆タバコを吸いに喫煙室に行ってしまうので、付いていった。喫煙室は狭くて6人ほどいると、満員になってしまう。
入院中、話す人がいないと辛いので、知り合いを増やすためにも僕は喫煙室に行っていたのだが、満員電車でタバコを吹かしているような状況なので辛かった。でもそれも初めのうち。すぐに慣れる事が出来た。部屋の壁と天井は最初は白かったのだろうか、タバコのやにで黄色くなっている。そこには、20 代前半のハルちゃんと、ハルちゃんと同じくらいの年齢のマリちゃん、30 歳前後だと思われるセイコさんと、僕と同じくらいの歳の高木君がそれぞれタバコを吸っていた。
ライターは火事になるといけないので、短い紐で壁にぶら下げられていて、取り外しが出来ないように頑丈につけられていた。
「高木君、タバコ吸っていいことになったの?」曽根さんが言った。
「1 度注意されたけど、その後何にも言われないし、我慢するとストレスになることもあるからって黙認っすね。」高木君は、僕よりも背が高くてかっこいい。髪の毛は坊主だけど、頭の形もよく、おしゃれして街を歩けば声をかけられるような容姿であった。
「黙認って高木君、何歳なの?」僕が聞いた。
「18っす。」高木君はタバコを吹かしながらいった。僕と同い年だ。
かねてから思っていたのだが、精神科病棟は喫煙率が高すぎる。僕以外のほとんどの人は吸っている、と思えば、ルカもだ。忘れていた。あまりにも自然にタバコを吸うので、気がつかなかった。不覚だ。この前の「ルカのこと好きだから」発言で止める前に、タバコを吸うのは法律的な問題で止めるべきだった。ルカが、タバコをヒトミちゃんに渡したのは、当然のことだったのだ。まぁ、結果的に止めるように決心したのだから、咎める事はやめにしよう。
「ハルちゃん、入院してどれくらい?」マリちゃんが口を開いた。マリちゃんは、ちょっとふっくらしている。
「2 年くらいです。19 歳のときから。」ハルちゃんが言った。ハルちゃんは、マリちゃんよりもっとふっくらしている。自分からはあまり話すほうではなく、いつも聞き役に回っている。
「そうだよね。私が入院する前からいたよね。」曽根さんが言うと、ハルちゃんはうなずいた。
「それだけ入院していたら健常者に友達いる?」曽根さんは聞きづらいことも結構突っ込んでくる。
「1 年くらいでいなくなっちゃった。今は面接に月に1 回、親が来るだけです。」ハルちゃんは寂しそうに言った。友達が少ない気持ちが分かって、かわいそうだった。僕達、精神科入院患者は、患者は「障碍者」、病気じゃない人は「健常者」と線を引く。僕も健常者で付き合いのいる人は1 人きりだ。でも健常者と障碍者で線引きするのはどうだろう?と言う気持ちを持つこともあった。みんな同じ人間だ。皆、生きている1 人の人間である。障碍者という立場を、社会から逃げるための免罪符に聞こえてしまって、「これは違うよな」と考えるときもあった。でも働けない、生きているのが辛い、死んでしまいたいと言う思いがあるのも事実だった。この二律背反に僕は揺れながら悩んでいた。
「マリちゃんは?」と、曽根さんが聞いた。
「私は半年くらい。でも任意入院じゃなくて措置入院だから、自分が出たくても先生や親が許可出さないと退院できないんだ。」マリちゃんは重度の電話依存症で、携帯電話の料金が1 ヶ月で50 万円までいって、親があわてて医師と相談して入院になったと聞いていた。
任意入院」とは、自分の意思で入院することである。他に「措置入院」と、「医療保護入院」がある。「措置入院」は、自傷他害の恐れがあって入院することである。「医療保護入院」とは、本人の同意がなくても保護者、または扶養義務者の同意により、精神科病院に入院させることができる制度である。僕とルカは多分「措置入院」である。なので、僕の「退院する」宣言は、無意味に終わる可能性が大きい。
「セイコさん長いよね。」マリちゃんが言った。セイコさんは「うん。」と言って、なぜかニコニコして出て行った。不思議な人だ。
「セイコさん、10 年以上いるそうだよ。」曽根さんが言った。
「え?今何歳?30 くらいだよね。20 歳の時からいるの?」マリちゃんが言った。
「ここの病院から1 キロくらい行った所に、おっきい家があって、そこのお嬢様らしいよ。」
曽根さんは何でもよく知っている。曽根さんが言うには、重度の統合失調症だそうだ。
「でもセイコさんの面会、見たことないよ。親どうしているんだろう。見捨てているのかな?」マリちゃんはかわいそうに、という感じで言った。
高木君が「トイレ行ってきます。」と言って出ていった。
曽根さんが、
「わざわざ言わなくていいよ。」と相槌を入れていた。高木君がいなくなると、
「こんなところで告るかなぁ。」とマリちゃんが言った。どうやら高木君は喫煙室で、2人の時にマリちゃんに告白したらしい。背も高く、かっこいいのでモテそうだがマリちゃんには振られたらしい。僕はどちらかというと細い娘がタイプなのだが、そうではないマリちゃんは高木君が惚れるのもわかる、かわいい人だった。すると、「ピンポーン」と放送がかかった。
「夕食が届きました。夕食が届きました。取りに来てくださーい。」
「さあ、メシメシ。今日はサンマでーす。」と曽根さんが言うと、
「またサンマぁ?」と嫌そうにマリちゃんが言って、僕たちは夕飯に向かった。その言葉がなんか家族団らんを演じたような気分になった。


8月25日20時31分
「突然だけどRの退院が決まった。
それは嬉しいことだけど、こんなに早く退院して大丈夫なのか、
心配してしまう。
Rがいなくなるのと、体調も安定してきたので、
僕も退院を看護師に申し出た。
措置入院なので退院できるかどうか分からないけど、
Rとは離れたくないな。」


次の日に、担当医の田中医師に個室に呼ばれた。
「今日まで入院生活、頑張って過ごしてきましたね。最後にどうしても話しておきたいことがあるので、時間を取らせてもらいました。」と言って、僕の病気についての説明を始めた。
「伊藤さんの場合は、心理テストや生い立ちのことを考えると、鬱もあるけれども、AC(アダルトチルドレン)なんだよね。広い意味で。」と言って続けた。「ACというのは「機能不全家庭で育ったことにより、成人してもなお内心的なトラウマを持つ」という考え方です。
そしてACというのは精神疾患名ではないけど、そのために精神疾患鬱状態になりやすく、気分が状況によって変わりやすい。純粋な鬱病ではないと言えば語弊があるかもしれないけど、新しいタイプの鬱と言えます。気分の良い悪いのふり幅が大きすぎる症状が見られるのです。そして対人恐怖やパーソナリティ障害という認知機能に大きな偏りがあり、社会生活に支障をきたす精神疾患になりやすいといった特徴もあります。」と、丁寧に教えてくれた。教科書を読んでいるようだ。

パーソナリティ障害というのは僕の場合「境界性パーソナリティ障害だろう。BPDやボーダーともいう。ボーダーの特徴としては、相手の些細な動作や態度から、見捨てられたと感じ、パニックに陥り、衝動的・自己破壊的な行為をしがちで、リストカットや大量服薬などの自傷行為を繰り返し、慢性的な強い空虚感や孤独感がある症状をいう。
「長年育った家庭の中での問題で認知機能が偏って、社会生活に支障をきたしているんです。そして自己評価が低く、対人関係に異常に気を使ってよく見てもらおうという考えになっている。自己評価が普通の人は、多少人に何か言われてもそんなに鬱になるほど落ち込まない。落ち込んでも自分の力で立ち上がれる。でも伊藤さんはそれが出来ず、自傷行為オーバードーズをしてしまう。」
なるほど、と思って僕は聞いていた。
「その認知の問題を正しいというか、社会でやっていけるように治療をしていく必要があります。そのことを忘れないでこれからの生活を営んでいってほしい、と言う事を言いたかったのです。」
兎にも角にも、僕の退院は成立したのだった。僕はこの田中先生に対して、不信感を抱いていた。「眠れない」というと誰に対しても出す薬を同じ。回診も少ない。自己の利益になることを優先している気がしたのだ。
しかし、僕はそれまでアダルトチルドレンに関する本を何冊も読んでいたが、実際に田中先生にそういわれたことで、自分の病的な部分を再確認した。案外優秀な医師かも、と思ったのも事実だ。そして数日が過ぎて、2人とも退院する事になった。


8月26日21時3分
「退院決定しました。
Rと同じ日。
皆と別れるのは寂しいけど、いつかは訪れる事。
皆で話をしていいるから、こころは紛れるが、
家に帰ったら大丈夫なのか不安に思ってしまう。
T医師と病気について話をした。
僕はACらしい。
それは何となくわかっていた。
パーソナリティ障害かもしれない。
というか、パーソナリティ障害なのだろう。境界性の。
自傷や見捨てられえ不安、自己評価の低さがあるのは、
気付いている。
でも入院患者の中にいるとそんなに悪いとは思わない。
でもそれはここでの話。
社会から隔離された特別な場所だからだ。
これをどうにかしないと、仕事も何もできない。
何とか頑張ろう。
あと退院の時にはRにブログのことを話そう。
そうすれば、離れて暮らしていても、コミュニケーションが
取れると思う。
ルカも僕も1人になるのは不安だろうから。」


それから5日後、区切りがいいという事で、月末の8月いっぱいで2人とも退院することとなった。僕は約1ヶ月の精神科入院を終えた。大森さんには「I'll be back になるなよ。」
とアメリカの映画に出てきた俳優の言葉を使って、笑いながら別れた。僕も将来になったら大森さんのような、大きな(体じゃなくて)人になろうと思った。今回の1ヶ月の入院は、今後の僕の人生や考え方に大きく影響を与えた。
退院後、僕は札幌の心療内科クリニックに通院する様になった。「自傷」や「OD」をする患者は、診察拒否に合うことが少なくないらしい。面倒な患者なのだ。医師によっては薬ばかりをたくさん出し、病気をないがしろされることも多いようだ。そういう所では、患者は心を開かない。患者は医師の仕草や言葉にとても敏感である。
曽根さんや大森さんの話では入院中に、「良い評判である」と聞いていた比較的家から近い、心療内科クリニックに通うことになった。ルカは入院していた病院が元々通院していた病院だったので、そのまま病院に通った。休学する少し前から通っていたそうだ。事前にクリニックに電話連絡をした時に、未成年と言う事もあって、家族の同伴して欲しいと言われていたので、父と二人で行った。僕が行ったクリニックは清潔感にあふれ、独り言を言う人もいなく、騒ぐ人もいなかった。皆、雑誌や携帯、編み物をしたりして順番を待っていた。評判が良い病院なので混んでいる。逆に混んでいない病院は、医師に問題がある場合が多いのだ。
そこはメディカルビルの中にあるこじんまりとした、きれいな外観で鉄パイプの椅子ではなく、柔らかいソファが並べられていた。そこには10人ほどの人が待合室に座り、オルゴールの様な音色の音楽がかかっていた。僕は始めに心理テストを行い、ソーシャルワーカーと呼ばれる人に、生まれてきて今までの経緯を細かく説明した。ソーシャルワーカーは詳細にメモを取り、待合室に戻された。
30分ほど経つと診察室に呼ばれ、40半ば位の短髪の男性に迎えられた。僕は、入院中の田中医師に紹介状を書いてもらっていた。その医師は紹介状とソーシャルワーカーの話から、僕が今「抑鬱状態」にあるが入院によって、今は少し良い状態であることを告げた。しかし、それは一時的なもので安心できない、と言っていた。そして、
「お薬を飲むことに抵抗はありますか?」と聞かれ、僕は、
「ない事」を告げると、医師に従って処方される薬で様子を見ることになった。クスリは「パキシル」で、クスリの説明書きを見ると「こころを楽にする薬」と書かれていた。初診では病名は告げられなかったが、鬱病であることは明らかだった。ただそれが、いつまで続くのか、いつ治るかは誰にも分からなかった。
初診で「アームカット」をしていることを告げると、「分かりました。それを含めて治していきましょうね。」と優しい言葉をかけてくれた。感じのいい医師であった。僕の病気の全てを受け入れてくれそうな、この医師について行くことを決めた。後から聞いたことによると、このクリニックは北海道でも有名で、主治医は「名医」として知られていた。それは偶然ではあったが幸運なことだった。
主治医になった先生は、僕にオーバードーズしたことを「大変だったね。」といい、怒りはしなかった。そして父にも病気のことを説明してくれた。「リストカットは無理に止めさせようとはしないこと」「OD防止に薬は父が管理すること」「すぐに良くなる病気ではないので、焦って仕事を進めたり、責めたりしないこと」などを伝えてくれた。しかし、やっぱり「甘えている」と言う感情が拭い去れず、若くても年をとっても生きて行くことが僕の中では「最大の挑戦」であるように思えた。
医師は父に、「こういう心の病気は家族の援助がかなり必要です。根気よく見守っていてあげて下さい。怒るのではなく、何かできたら褒めてあげて下さい。タカシさんは自分で自分を肯定できない状態にあります。もう高校も出た年齢で、「甘えている」と思われる時があるかもしれませんが、「自分が生きていって良い」という感情を持てるようにしてあげて下さい。そして出来たら、もしタカシさんが自傷をしてしまった時には、ガーゼや包帯を使って、傷口の治療をしてあげて下さい。これは「自傷をしても見捨てないよ」とい
う信頼関係に近づきます。医師、家族、患者の信頼関係が無ければ治療は難しいです。」
そして最後に先生は、「今ままで辛かったね。もう無理しなくていいよ。一緒に治していこう。」と、僕の肩にポンポンと叩いて笑顔で僕を見てくれた。
僕は目から今にも涙が出そうになり、鼻をすすりながら、「このクリニックに来てよかった。」と心の底から思った。


季節はもう8月も終わりになっていた。